西郷隆盛には葬送曲が送られ、大久保利通は予知夢を見ていた――『青天を衝け』で“ナレ死”した彼らの死に際
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
西郷隆盛(博多華丸さん)がまさか「ナレ死」ならぬ「新聞死」……先週の『青天を衝け』(第33回「論語と算盤」)にはさすがに驚かされました。渋沢栄一は新政府を去ってすでに久しく、彼が重役を務める銀行が潰れるかどうかの瀬戸際だったにせよ、ドラマの中でそれなりの存在感で描かれていた西郷の死が、あまりにサラッと流されたことは(半ば予測できたにせよ)衝撃でした。この放送では、岩崎弥之助(忍成修吾さん)のセリフを通して大久保利通(石丸幹二さん)の死も伝えられました。
もうひとり、三井組の重役だった三野村利左衛門(イッセー尾形さん)もナレ死を遂げましたね。ドラマ内で三野村はそこまで良い印象を持つようには描かれてきませんでしたが、小栗上野介こと小栗忠順(武田真治さん)に取り立てられて出世したという恩義があり、彼の遺児を養育しているという逸話が伝えられ、われわれが「へー」と思った矢先の死でした。
今回は、実は“関連している”西郷隆盛と大久保利通の死について取り上げることにします。
前々回のこの連載(こちら)でも少しお話ししたとおり、西郷は“明治維新の功労者”として、新政府の要職に巨額の報酬をもって迎えられていました。「西郷隆盛の年収は1億2000万円」などと聞いたことがある方も多いのでは? 筆者も先日、別の媒体でこの話に触れましたが、根拠はあります。明治5年(1872年)に陸軍元帥になった西郷の月給は500円で、明治前期の1円=現在の2万円に相当すると考えるケースも多いのです。
場合によっては、2万円どころか、明治の1円=現在の10万円と考えなければツジツマが合わないこともあります。明治時代の日本は、現代と比べて物の値段は高く、人の労賃がきわめて安い時代だからです。明治13年(1880年)の労働者の給与水準は、大卒のサラリーマンの初任給が月給8円、巡査の初任給が月給4円というものでした。月に5円もあれば比較的に豊かな生活ができたのが、当時の日本の物価水準です。しかし、明治前期の1円=現在の2万円で換算すると、大卒サラリーマンでも月収16万円、公務員の巡査でも月収8万円になってしまい、今日の感覚ではやや低めの印象がします。
過去の貨幣価値を現代に置き換える作業は難しいのですが、単純にいって、過去の世界では“上流階級”と“それ以外”で完全にすみ分けられていたと考えたほうがよいでしょうね。「西郷の月収500円」も、当時の庶民の感覚では桁外れの富裕層という印象でしょう。
しかし、これだけ厚遇されていながらも、西郷の勤務態度はあまりよくありませんでした。それゆえ、明治6年(1873年)には他ならぬ盟友・大久保利通の手によって新政府での居場所を奪われ、鹿児島(薩摩)に戻らざるをえなくなったのです(「明治六年の政変」)。
西郷が“年収1億2000万円”だった期間は1年足らずでしたが、彼の生涯最高給与が支払われていたこの時期、西郷の健康状態は心身ともに最悪でした。
西郷が大久保と対立した末に新政府を追い出された「明治六年の政変」においては、その強硬主張が問題視されました。朝鮮を日本が武力制圧すべきという「征韓論」推進派の西郷と、反対派の大久保が全面対立したと語られがちですが、当時の西郷の主張はそもそも尋常とは言えないものだったのです。
自分は長くないと悟った西郷は、己の死に場所を朝鮮半島に求めたがりました。当時、朝鮮はまだ鎖国を続けていましたが、西郷は「朝鮮開国を求める自分が当地で暗殺されれば、日本が軍隊派遣の口実を得られるはずだ。そこで戦争を起こして一気にカタを付けてしまえ!」などと、外交上の大問題に発展しかねない主張をして憚らなかったのでした。大久保は、こうした“誇大妄想狂”になってしまった盟友・西郷を断腸の思いで排斥するしかなくなったのです。
大久保の態度に機嫌を損ねた西郷は、明治天皇に辞職の許しを得ぬまま、東京を去って鹿児島に下り、その後、九州中の不平士族たちに担ぎ上げられてしまいました。そして明治10年(1877年)初頭から、後に「西南戦争」と呼ばれる戦乱の中心人物として西郷は世間を騒がせることになったのです。
このように『青天~』において西郷が“新聞死”を遂げた背景には、「大河ドラマ」では少々取り上げにくいダークな真相が隠されていたのでした。
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