『どうする家康』家康ら「大老」と三成ら「奉行」の複雑なパワーバランスと人間関係
#大河ドラマ #どうする家康 #大河ドラマ勝手に放送講義
──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『どうする家康』第39回「太閤、くだばる」は、秀吉(ムロツヨシさん)の死とともに酒井忠次(大森南朋さん)の退場もありました。忠次の死については触れそびれていましたが、ドラマの演出は史実とはかなり異なる印象でしたね。史実の忠次が京都に隠居していたのは事実ですが、ドラマのように家康が忠次を訪問したという記録は皆無のようです。
忠次がわざわざ京都で隠居していたのは、家康との関係が悪化したことで不遇の晩年を過ごしていた忠次の窮状を秀吉が見かねたからともいいます。秀吉は家康の了解を得て、忠次を京都に呼び寄せたのです。最晩年の忠次は、徳川家関係者よりも豊臣一門との付き合いのほうが深くなっていました。忠次の死についての詳しい情報は、「徳川四天王」の筆頭にもかかわらず不自然なまでに存在しませんが、これは忠次の子孫たちが徳川家より豊臣家との関係が深くなったことを隠そうとした結果かもしれません。ちなみに「四天王」については、忠次だけでなく本多忠勝と榊原康政も家康との関係が微妙に変化しており、つまり家康との関係が本当に良好なままだったのは井伊直政だけでした。これについてはまた後の機会にでも触れることができればよいですね。
それにしても、第39回のハイライトと言えたのは「太閤殿下」こと秀吉の死でした。このドラマにおいて、松本潤さん演じる家康は「清く正しく美しく」という宝塚の標語のような存在であるのに対し、ムロさんの秀吉はその真逆であり続けました。どこか得体の知れないムロ版秀吉は病床においても、合議制を提案する石田三成(中村七之助さん)に対しては「望みはひとえに世の安寧、民の幸せ」と殊勝なことを言ったかと思うと、家康に対しては「世の安寧など知ったことか」と吐き捨て、「な~んもかんも放り投げて、わしはくたばる。あとはおめえがどうにかせえ」と笑ったり、秀吉の死後は三成を支えていくという家康を「白兎が狸になったか」と疑う一方、家康から「(信長亡き後)天下を引き継いだのはそなたである。まことに見事であった」と言われると、「すまんのう。うまくやりなされや」と後を託してみたり……。家康が「ブレない」のに対し、つかみどころのない秀吉は一貫して「ブレ続ける」のです。
ムロ版秀吉は死に際の演技も圧巻でしたが、茶々(北川景子さん)との対峙も興味深かったですね。末期の秀吉に茶々が「秀頼はあなたの子だとお思い?」と告げるシーンが予告で流れた際には「秀頼は秀吉の実子ではない説」が取り上げられるのかと話題になっていましたが、実際には彼女のセリフは「秀頼はこの私の子。天下は渡さぬ」と続きました。「あとは私に任せよ。猿」と、女性ながらに「天下人」の継承宣言をしたのには驚かされましたね。
茶々の宣言に秀吉はニヤッと笑ってそのまま事切れたのですが、ドラマのチーフ演出の村橋直樹監督は、秀吉の最期の笑顔について「ムロ秀吉はなんと、笑うのです。茶々という戦国の怪物の誕生を寿(ことほ)ぐように」とコメントしており、「女天下人」茶々の誕生を祝福したかのような笑みだったと振り返っています。個人的には、猫を被っていた茶々の本音を聞いた秀吉が「やっぱりおまえさんはそういう女じゃ」「それでええんじゃ」とニヤリとしたように見えました。
茶々は病床の秀吉に「まだこんなに秀頼は小さいのに、死ぬなんて役立たず」といわんがばかりの冷たい眼差しを送るばかりでしたが、本当に最期ともなれば、二人もの子どもを成した仲である秀吉の死に思わぬ感情が沸き起こったのでしょう、「猿」と言葉では見下していた秀吉がついに動かなくなると、彼女は秀吉を抱き寄せ、その目には大粒の涙が浮かんでいました。この茶々の涙が脚本にあったものか、もしくは茶々を演じる北川景子さんの中で思わぬ感情として沸き起こった結果なのかはともかく、伝説的な名シーンに仕上がっていたと思います。
さて今回は、豊臣政権の中枢を担った五大老と五奉行についてお話しようと思います。次回・第40回のあらすじには、〈秀吉の遺言に従い、家康は五大老たちと政治を行おうとするものの、毛利輝元や上杉景勝は自国に引き上げ、前田利家は病に倒れる〉とあり、ここにおいてようやく五大老と五奉行が登場、合議制によって政治を行うシステムがドラマでも稼働し始めることになりそうです。毛利や上杉といった大老たちが上方から領国に帰ってしまう理由については、史実においては秀吉の死後、我が物顔の振る舞いが増えた家康に辟易したから……と考えるのが客観的には正しいのでしょうが、ドラマではどのように描くのでしょうか?
秀吉の晩年以降の豊臣政権における合議制についてですが、ドラマでは、三成が発案して提言し、病床の秀吉が「わしも同じ考えよ」と賛同、「よい。やってみい」と許可を出して始まった……という描かれ方でした。しかし史料を見渡すかぎり、五大老と五奉行という合議制が誕生したのは、晩年の体調悪化にともなって秀吉が、長年の親友である前田利家だけでなく、ライバルであるはずの徳川家康にも何度も頭を下げ、秀頼を中心にした豊臣政権が一日も長く延命できるようにと、できるかぎりの手を尽くした結果によるものだといえるでしょうか。
ドラマでは、秀吉が甥の秀次を自害にまで追い込んだ「秀次事件」について家康の「秀次様を死に追いやり」というセリフで触れられた程度でしたが、秀吉は、関白の座を譲った秀次を謀反の疑いで切腹にまで追い込んだのみならず、秀次の一族ら関係者までも大量処刑しました。朝鮮出兵についてはドラマでもその残酷さがわずかに触れられていましたが、晩年の秀吉は異常なまでに専横的だったのです。その秀吉が、ドラマでも家康に頭を下げるシーンがあったように、死期を悟るやいなや態度を一変させ、いじらしく「秀頼のことを頼む」という遺言状を何通も有力者に送ったり、彼らに「謀反は起こさない」と誓わせたりするようになったというのは、哀れというしかありません。
しかし、そうした遺言状や誓詞状も、秀吉の死後、家康の手で反故にされていったのが残酷な史実です。晩年の秀吉が心血を注いで作り上げた五奉行と五大老といった政治の枠組みが有名無実化したのは、本当に一瞬のことでした。(1/2 P2はこちら)
サイゾー人気記事ランキングすべて見る
イチオシ記事