『どうする家康』慶長の役を引き起こした、講和交渉における「情報捏造」の犯人は?
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『どうする家康』の次回・第39回は「太閤、くだばる」と題されており、いよいよ秀吉(ムロツヨシさん)の退場回となるようです。家康(松本潤さん)の側室・阿茶(松本若菜さん)は晩年の秀吉の「暴走」について、「人は誰しも老いまするゆえ」と指摘していました。実際、第38回の秀吉は、前回までと比べて急激に見た目も老け込んで、いまだ若々しい家康とは対照的でしたね。
晩年の秀吉は「欲望の怪物」そのものであったといえるでしょう。その「怪物」と、家康がどのように渡り合うかの心理戦は、史実においては「戦」そのものであったはずで、そういうヒリつくようなやり取りをドラマでもっと見たかったな……というのが、いち視聴者としての正直な感想です。これまでの大河ドラマではほとんど触れられなかった三方ヶ原の戦いが数回に分けて映像化されたあたりなどは、『どうする家康』のこだわりだったのでしょう。しかし、「話の進み方がスローペースすぎる」という指摘もあるとおり、そのシワ寄せが終盤になって顕著になってしまっているようですね。もう少し、晩年の壊れていく秀吉と、彼に良い顔を見せつつも実は追い越そうとしている家康という、日本史を代表するビッグネーム同士のデスマッチをじっくり見たかったという思いがあります。特に第38回のムロさん演じる秀吉は、刻々と移り変わる表情、そして相変わらずの底知れぬ内面の不気味さという点で出色だったので、退場が惜しまれます。
さて、次回・第39回のあらすじにはこのような文面があります。〈茶々に拾(後の秀頼)が生まれた。家康の説得により、明との和睦を決めた秀吉。しかし、石田三成たちが結んだ和議が嘘とわかると、朝鮮へ兵を差し向けると宣言、秀吉の暴走が再び始まった〉。この「和議が嘘」だったというのは、双方の国に対して「相手が降伏した」などと虚偽の説明をしたということなのですが、「相手の国に向こうの国が降伏したとの偽りの情報を与えて講和させようとしたところで、うまくいかせるのは難しいのでは?」という疑問を持つ方もいらっしゃるでしょう。しかしこれはフィクションではなく、史実にあった本当の話で、現代の視点から見るとありえないように思えますが、これがうまくいきかけたのは、当時だからこそ、といえるかもしれません。今回はこの和議がどのように行われ、破綻したのか、お話ししましょう。
詳しくお話しするまえに、まずはドラマで描かれなかった秀吉の「海外政策」についておさらいしておきましょう。秀吉が「朝鮮・明国の征服」という途方もない野望を抱き始めた時期は、天正18年(1590年)の「日本平定」より2年も前から始まっていました。秀吉は、対馬の大名・宗義智(そう・よしとも)に命じて朝鮮王の政府に使者を送らせ、「我が軍勢は陸路で明国を攻撃する予定だから、朝鮮は日本の属国となって、その道案内をしろ」という、むちゃくちゃな交渉をさせたのです。当然ながら朝鮮政府からは相手にされず、ハネつけられてしまいました。朝鮮を属国にしたかったのは、秀吉には日本軍の弱点が水軍という認識があり、朝鮮の強い水軍を味方に引き込みたいという目論見があったからです。
朝鮮政府から自身の野望を鼻で笑われてしまったことに秀吉は立腹し、肥前・名護屋城の建築を進めました。そして文禄元年(1592年)4月、「明国への道を借りる」という名目で総勢16万人もの大軍勢を朝鮮半島まで送りこみ始めます。これがいわゆる文禄の役です。
この時、朝鮮の高官たちは国内の権力闘争に溺れるあまり、秀吉軍への対応が遅れてしまいました。このため、秀吉軍は進軍開始からわずか一カ月で、朝鮮半島の南端から首都の漢城(現在のソウル)までを支配下に置くことに成功し、当地の人々に日本風の名前を名乗らせたり、日本風の髪型の強制などもしています。この勝利はきわめて一瞬でしたが、秀吉はめっぽう気を良くし、ドラマ同様、「後陽成天皇に明国皇帝となっていただき、甥の秀次を明国の関白に据える」などと口走っていました。
しかし同年(1592年)7月ごろ、秀吉軍の弱点である水軍が朝鮮水軍に敗れ始め、民衆の反乱も凄まじくなってきます。9月には、朝鮮政府からのSOSに応えた明国の救援軍が到着し、秀吉軍はあっという間に当初の勢いを失いました。
そして翌年(文禄2年・1593年)になると、どちらからともなく休戦と和睦の話が出始めます。同年5月に、明国から日本にやってきた使者・楊方亨(よう・ほうきょう)、沈惟敬(しん・いけい/ちん・いけい)らが秀吉と対面しました。休戦自体には同意した秀吉ですが、講和の条件として、「明国の皇女を日本の天皇に嫁がせろ」「朝鮮の王子と大臣を日本に人質に送れ」「朝鮮や明国は鎖国を解いて、勘合貿易を再開しろ」という、あくまで圧勝した者が完敗した者に突きつけるような、常識を大きく外れた内容を提示したため、交渉は破綻してしまいます。
これには明国からの使者たちは困り果てました。明の皇帝も、秀吉が降伏した証を強く求めていたからです。ちなみに、この時の日本側の主たる交渉担当者は、小西行長でした。ドラマでは行長を池内万作さんが演じる予定で、公式サイトでは行長について〈明との和平交渉では三成とともに尽力する〉とありますが、あらすじにある「石田三成たちが結んだ和議」という表現からすると、ドラマでは三成(中村七之助さん)がこの交渉を主導する立場として描かれることになるのでしょうか。
休戦から3年あまりが流れた慶長元年(1596年)、ふたたび明国からの使者たちが日本を訪れました。秀吉はついに明国と朝鮮が降伏したと喜んでいたのですが、彼らが持ってきたのは、「日本を明の属国として認め、冊封体制に組み入れてやる」という思わぬ通達でした。(1/2 P2はこちら)
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