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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 瀬名と信康の悲劇的な最期
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』とは違う? 史実における瀬名と信康の最期と、信長の判断

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』の瀬名は政治に深く関わる? 築山殿の“クーデター”はどう描かれるかの画像1
瀬名(有村架純)| ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』第24回の内容には驚かされましたね。日本中で領地の奪い合いをしているような戦国の世を終わらせたい瀬名(有村架純さん)は、当時の「国」の枠組みを超え、人々が手を取り合い、足りないものは分かち合える社会を作ろうとしていたのです。

 徳川・武田・北条などでひとつの経済圏を作り、織田をしのぐ勢力となれば、戦は避けられるし、後には上杉、伊達、ゆくゆくは織田も取り込み、「あらゆる事柄を話し合いで決めてゆく」政体……というか、日本の中に、もうひとつの新しい国家を誕生させることを目指すという「途方もない謀(はかりごと)」を、瀬名は発案してしまいました。ちなみに彼女の主張の中にあった共通貨幣を制定するという提案は、実際に家康が後に行ったことでもあります。

 「助け合い」という言葉は耳に心地よく響き、斬新なアイデアではありますが、少し前まで敵だった者同士が、信頼も積み重ねないままに「約束」だけで結びつく関係を成り立たせるのは、徳川家臣たちが指摘していたようにやはり現実的ではなく、しかも誰かが勝手なことをしないように上から頭を押さえるような強力な盟主=リーダーが不在とあらば、その共同体は非常に脆そうです。あくまで架空のドラマオリジナルの設定としても、すぐに破綻するだろうと思った方も多いのでは? 案の定、武田勝頼(眞栄田郷敦さん)は「おなごのままごと」だとしてあっさり裏切ってみせ、世間に瀬名の計画をぶちまけてしまいます。

 「主君」信長(岡田准一さん)にすべてを知られてしまった家康(松本潤さん)は「配下」として責任を取らざるを得なくなり、これが瀬名と信康(細田佳央太さん)を粛清するという悲劇につながっていきそうです。次回のあらすじによると、家康は「信長の目をあざむき、妻子を逃がそうと決意」しますが、「瀬名は五徳に、姑は悪女だと訴える手紙を信長に宛てて書かせ、全ての責任を負おうとする」ようです。

 第24回の瀬名は、かつて家康の側室・お万(松井玲奈さん)から「男どもに戦のない世など作れるはずがない」「政もおなごがやればよい」と言われたことや、母・巴(真矢ミキさん)の「瀬名、強くおなり。我らおなごはな、大切なものを守るために命を懸けるんです。そなたが命を懸けるべき時はいずれ必ず来ます」という言葉を思い出していました。予告映像には「全てを背負わせてくださいませ」という瀬名のセリフがありましたが、自ら志願して首をはねられ、刑死することになるのでしょうか。悲劇的な退場シーンとなりそうです。

 では、史実において、瀬名=築山殿や松平信康の死にざまについては、どのように記録されているのでしょうか。ドラマの瀬名なら、粛々と自害を選んでもおかしくはありませんが、江戸時代初期に成立した『三河物語』には、天正7年(1579年)8月29日、家康が築山殿のもとに使者たちを派遣し、自害を勧めたものの、拒絶されたので仕方なく彼女の首をはねたという記述が出てきます。築山殿は生にみっともなくしがみついた……と言外にバカにしているのかもしれません。

 信康の最期については、家康から死を命じられ、それを受け入れて自害したという記録はさまざまな史料にあるものの、築山殿とは異なり、具体的なことは何もわかりません。例外として、寛永・正保年間(1624年~1648年)に成立した『改正三河後風土記』という史料には、信康が「本当は、私は謀反など企てていなかったと父上に伝えてほしい」と服部(半蔵)正成に頼み込み、正成が承知すると、にっこり笑って「もはや思い残すことはない」と言って自害したとあります。しかし、信康に深く同情するあまり、「鬼の半蔵」と呼ばれた正成も介錯はできず、別の武士がその任に当たった……ともあります。一方で、同書では築山殿は殺害されたとなっており、その報告を聞いた家康が「何も女まで殺すことはなかったのに」と眉をひそめたという記述もありますね。(1/2 P2はこちら

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