『どうする家康』柴田勝家とお市の“悲劇”を生んだ秀吉との対立はいつから?
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『どうする家康』第29回は神君伊賀越えが取り上げられましたが、服部党にスポットは当てられたものの、彼らの超人的な活躍が描かれるというわけではありませんでした。思ったより頼りない服部半蔵(山田孝之さん)の犯した致命的な判断ミスを、女大鼠(松本まりかさん)始め服部党の面々が命懸けでカバーし、家康(松本潤さん)との絆が深まるという内容だった気がします。瀬名姫の最期が描かれた第25回「はるかに遠い夢」でも感じましたが、松本まりかさんの女大鼠の演技はとてもよいですね。
そんな服部党よりも活躍していたのが、まさかの再登場を遂げた本多正信(松山ケンイチさん)でした。彼は史実においても、家康のもとを長年出奔したのちに、ある時からなぜか鷹匠として家康のもとに復帰しているのですが、ドラマの正信の「鷹の世話あたりからなら、そのうち(戻る)」という発言はそういうエピソードとつながる内容で、興味深く拝見しました。
『どうする家康』の次回は「新たなる覇者」と題されていますが、予告映像からすると、今度は柴田勝家(吉原光夫さん)と再婚するお市(北川景子さん)にスポットが当たりそうです。予告では、「秀吉は己の欲のままに生きておる」「織田家は死なぬ」などというお市のセリフが引用されていましたが、信長の死後、覇権を拡大しつつあった秀吉(ムロツヨシさん)に織田家が乗っ取られてしまうことを危惧している様子がうかがえます。茶々姫(のちの淀殿)らしき女性が、「お見えになるでしょうか? 母上が待ちわびておられるお方」と話す場面もありました。
あらすじには〈秀吉は織田家の跡継ぎを決める清須会議で、信長の孫・三法師を立てつつ、織田家の実権を握ろうとしていた。そんな秀吉の動きを苦々しく見ていた市は柴田勝家との結婚を決意。秀吉と勝家の対立が深まる〉とあり、柴田勝家と秀吉の対立が次回のストーリーの中心となるのでしょうが、信長の死の直後に開かれた天正10年(1582年)6月の清須会議において、両者はかなり激しく対立しつつも、一応の和解にはたどりつきました。しかし、それはすぐに破られてしまい、翌年4月の北ノ庄城の戦いで雌雄を決することになるのです。
勝家と秀吉の不仲については、いつから激化していたのかは史料上はよくわかりません。2人の関係悪化のきっかけとしてよく語られるのは、天正5年(1577年)9月の「手取川の戦い」において織田軍と上杉軍の激突直前、勝家の指示を不服とした秀吉が信長の許可すら得ずに戦場を離れて帰参する事件が起きたという逸話ですが、この話のソースは、19世紀に栗原柳庵が書いた『真書太閤記』という講談の種本で、『信長公記』の記述を拡大解釈しているとはいえ、とても史実とはいえない内容であると思えます。上杉軍の視点から書かれた16世紀末の史料『藤戸明神由来』には、むしろこの戦で一番奮闘していたのが秀吉軍であったことが記されていますから。
勝家と秀吉には、信長家臣団における古参と新参という壁があり、以前から対立的な関係にあったとする説もありますが、これもそうでもないようです。勝家はもともとは信長の弟・信行の家臣でした。信行が、林秀貞など反・信長派の者たちからそそのかされ、兄に対する二度目の謀反を計画したとき、それを信長に密告し、事前に食い止めたのが勝家で、それ以降、彼は信長の重臣となったのです。
それでも勝家は、秀吉よりも信長の家臣として古株にあたりますが、新参者である秀吉と長い間(表向き)うまくやっていたようです。『南行雑録』という書物には柴田勝家が堀秀政に送った書状が収められており、その日付は秀吉と対立した清須会議よりも4カ月ほど後の「天正十年十月六日付」なのですが、その時点においても、勝家は自分と秀吉の関係について「羽柴勝家之元来無等閑(むとうかん=おろそかに扱うことはないという意味)に候」という言葉で表現しているほどでした。
しかし、これは一種の虚勢にすぎなかったかもしれませんね。無等閑という表現からはむしろ、勝家にとって当初は軽輩・若輩という印象だったであろう秀吉が、信長から寵愛され、短期間で想像以上の成長を遂げたことを密かに警戒していたことがうかがえるような気がするのです。
両者の不仲が表面化したのは、やはり、清須会議において、柴田勝家の主張に対して秀吉が真正面から異論・反論を挟んだことから始まったのだと思われます。そして勝家は、目上の者として余裕をもって振る舞いつつも、裏では秀吉との対決姿勢を強めていったのでしょう。
この会議の主な議題は、亡き信長の後継者を誰にするかということでしたが、信長の嫡男・信忠も本能寺の変で戦死しており、後継者問題は難しい状況にありました。秀吉は信忠の嫡男で、当時わずか3歳の三法師(後の秀信)を推挙しましたが、その一方で、勝家は信長の三男・織田信孝を推したのです。ここで秀吉は、勝家が推す信孝について、三男であることに加え、彼がすでに伊勢国の神戸(かんべ)家に養子に出ている点を難じ、信忠の嫡男ということは信長の嫡孫でもあるという三法師の「正当性」を実にうまくアピールすることに成功しました。秀吉は、会議の主たる出席者の池田恒興、丹羽長秀らに周到な根回しをしていたこともあり、彼らも秀吉の主張に賛同しました。そうでなくても、謀反人の明智光秀を討ち取った秀吉の影響力は強く、勝家は結局、秀吉の主張に押されたまま挽回することができませんでした。(1/2 P2はこちら)
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