『どうする家康』伊賀越えに協力したのは忍者ではない? 謎多き家康の脱出ルート
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『どうする家康』第28回では、信長(岡田准一さん)が、明智光秀(酒向芳さん)の放った忍びに寝込みを襲われ、深手を負った後に大立ち回りを見せたのには驚かされました。家康(松本潤さん)に襲撃されたと思い込み、「家康……家康……」と血まみれでつぶやいていた信長が見つけたのは、しかし家康ではなく明智光秀で、すさまじくガッカリした表情が印象的でしたね。「やれんのかキンカン頭! お前に俺の代わりが!」と叫び、そのまま燃え上がる本能寺の堂内に消えていくのが、ラストシーンとなりました。
事件から87年後、加賀藩の兵学者・関屋政春が甥に対して語った内容によると「(事件当時)光秀は鳥羽(現在の伏見区)に控えていた(『乙夜之書物』)」とのことで、おそらく実際の光秀は自ら本能寺まで兵を率いることも、本能寺で信長と対面することもなかったと思われますが、『どうする家康』の光秀ならば、絶対にしゃしゃり出てきて、信長の最期に憎まれ口を利いてやろうとしていたはずです。あれはあれで「正しい」演出だと感じました。
光秀の暗躍に対し、「信長を殺す」と家臣に宣言していた家康の暴走はありませんでした。堺で偶然再会したお市(北川景子さん)から「あなた様は兄のたった一人の友」「皆から恐れられ、誰からも愛されず、お山のてっぺんで独りぼっち。心を許すたった一人の友には憎まれている。あれほど哀れな人はおりませぬ。きっと兄の人生で楽しかったのはほんのひととき。家を飛び出し竹殿たちと相撲をとって遊んでいた、あのころだけでしょう」と聞かされ、信長を討ち取るという決心が大いに揺らぎ、その間に光秀が動いてしまった、という展開でした。お市は、ああいうメッセージを伝えることで、かつて慕っていた家康を「主殺し」の汚名から守ろうとしたかったのかもしれませんが。
第28回は信長の回想シーンも多く、印象的でしたね。少年時代から父・信秀(藤岡弘、さん)に「身内も家臣も、誰も信じるな。信じられるのは己一人! それがお主の道じゃ」と厳しく(しかし、かなり歪んだ形で)育てられた信長ですが、死期を悟った信秀から織田家の家督を継げと命じられると、「己ただ一人の道を行けと?」と、まだ孤高の道を歩むことにためらいがある様子でした。そんな信長に、信秀は「どうしても耐え難ければ、心を許すのは一人だけにしておけ」「こいつになら殺されても悔いはないと思う友を、一人だけ」と告げていましたが、それがこのドラマにおける信長の家康への執着につながったということでしょう。
この大河は、「狼」の織田信長と「兎」の徳川家康の関係性を大きな柱にしていることは明らかです。信長を熱演した岡田准一さんは、第28回前日に放送された『土スタ』(NHK総合)に出演した際に「家康と信長の関係でもっていくような台本」と話していましたし、7月16日に安土城の地・近江八幡市で行われたトークショーが放送された『どうする家康「本能寺の変直前」SP』という番組において、制作統括の磯智明さんは「これはある恋愛ドラマ、ある別れのシーンだなあって。2人の人間の、信長と家康の最後のクライマックス。別れ話を切り出した2人の関係みたいなところがあって」とも語っており、それほど信長と家康の関係に重点を置いた作品でした。「大河ドラマ」では、武将二人の衆道的な関係というのはせいぜい裏テーマとして描かれる程度で、今回ほど真正面から描かれることは少なかったので、興味深かったですね。
さて、第29回は「伊賀を越えろ!」と題されているとおり、「神君伊賀越え」が描かれる回となりそうです。以前にも神君伊賀越えについて少しだけ触れましたが、今回のコラムではもう少し詳しく考察してみたいと思います。
ドラマでは、家康は堺の街で「実に多くの有力者たちと親交を深めた」とされ、井伊直政(板垣李光人さん)が「殿は信長を討ったあとの備えもぬかりない」と家康の思惑を指摘していましたが、史実においては、堺の滞在は家康自身の意思ではなく、信長亡き世の足場固めに……というような意図があったわけでもありませんでした。信長の招待があったからこそ堺に滞在できていたのです。もちろんドラマのようにお市との再会もなかったはずです。
家康が本能寺の変の知らせを受け取ったのは6月2日の朝で、信長のいる京都へ帰ろうと堺を出立した後でした。その道中で京都から駆けてきた茶屋四郎次郎と遭遇し、信長が本能寺で亡くなったことを告げられて仰天しています。『東照宮御実記(以下、御実記)』では、その場所を「河内の交野、枚方」あたりとしか書いていませんが、一説にそれは飯盛山(現在の大阪府の四條畷市・大東市)の麓で、家康は今後の身の処し方をどうするべきか非常に悩み、家臣たちと協議したとされています。
信長とは清洲同盟で結ばれた20年来の盟友でしたから、遅かれ早かれ、家康が明智光秀に生命を狙われることは明白でした。しかしこの時の一行は、家康を入れても35名で、いますぐ京都に向かって光秀の賊軍を叩くような勇ましい決断は不可能というしかなく、「とにかく、ここはいったん三河に戻って態勢を立て直すところから始めましょう」と主張する本多忠勝などの家臣たちと、「そうしたいのだが、現実問題としては困難だろうから、ここで私は自害したい」という弱気な家康とで議論があったようです。
『御実紀』によると、家康一行には、信長が堺観光の案内人としてあてがってくれていた長谷川竹丸(=長谷川秀一)という人物も同行しており、家康が三河まで逃亡するのであれば、その最短ルート沿いの地域を勢力範囲にしている郷士たちと自分は面識があるから家康は逃亡可能だと竹丸は主張しました。竹丸は、以前に郷士たちと信長をつなげた実績があり、その郷士たちは信長の協力者となっていたのです。(1/2 P2はこちら)
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