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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 織田信長はパワハラ気質だったのか?
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』信長は本当にパワハラ気質なのか? 「安土城で光秀に激怒」の逸話の信憑性は

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』信長は本当にパワハラ気質なのか? 「安土城で光秀に激怒」の逸話の信憑性はの画像1
徳川家康(松本潤)| ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』第26回では、秀吉(ムロツヨシさん)から「恨んどるんだないきゃ? 上様を」と問われても、信長(岡田准一さん)本人から「恨んでおるのは……別の誰かか?」と訊かれてもすっとぼけていた家康(松本潤さん)ですが、裏では虎視眈々と信長殺害の機会と天下を狙っていることが最後に明かされました。

 家康の「信長を殺す」という宣言は、本編のラストに出てきた「本能寺の変まであと46日」の文字と共に大きなインパクトがあり、SNSでは「家康黒幕説」というワードがトレンド入りしていましたね。第26回の冒頭部分では、月代(さかやき)を剃らせる家康の姿がありましたが、当時、武士たちの間で流行り始めたあの髪型には、頭に血が上り、カッとなって冷静な判断ができなくなることを防ぐ効果があると信じられていたそうです。家康の新しい髪型には、彼の野望が秘められていたのかもしれません。

 明智光秀が信長を打倒した本能寺の変。天正10年(1582年)6月2日に起きたこの事件は、当時の日本の勢力地図を大きく塗り替えました。しかし、なぜか光秀を動かした「真犯人」が影にいるという見方は根強く、朝廷説、足利義昭説、秀吉説など、多くの黒幕の存在が噂されてきました。その中で、家康黒幕説も古くから存在していたのです。根拠とされるのは、明智光秀の配下の本城惣右衛門という武将が寛永17年(1640年)に筆記、もしくは口述させた『本城惣右衛門覚書』などの史料です。ただ、これは当時すでに年齢が80代以上になっていたと考えられる本城(生年不詳)の回想ですから、信憑性には疑問はあります。

 それでもこの本城の回想には興味深い点があります。たとえば、明智配下の中堅武将である本城ですら、本能寺に攻め入る際に「誰を討ち取れ」などの目的や具体的な情報は聞かされておらず、ただ「本能寺に攻め入れ」とだけ指示されていた点です。そして本城は攻撃対象がまさか信長だとは思いもしなかったようです。ターゲットは「いゑやすさまとばかり存候(ぞんじそうろう)」……光秀さまが出す命令なら「家康を討ち取れ」というものだろうと思い込んでいたというのですね。

 このあたりの解釈は複雑になるので、また後日お話ししましょう。もしドラマが「家康黒幕説」を採用するのであれば、信長を恨んだ光秀(酒向芳さん)は本能寺に攻め込んだが、すでに家康が信長をひそかに始末しており、後からやってきた光秀はまんまと犯人の容疑をなすりつけられる……というように描くのかもしれません。

 次回のあらすじによると、〈家康たちは信長に招かれ、安土城へ。だが酒宴の席で、家康は供された鯉が臭うと言いだした。信長は激高し、接待役の明智を打ちのめし、追放する〉とあり、家康の発言によって、光秀は面目を失ったばかりか、信長のモラハラ・パワハラに晒されるようです。

 『麒麟がくる』でもかなりの暴力シーンがあったように記憶していますが、歴史ドラマに頻出のこの「信長によるモラハラ・パワハラ」は、どの程度まで史実と言えるのかを今回は少し検証してみたいと思います。

 信長は、富士遊覧の際の家康のもてなしに返礼するため、家康と穴山梅雪らを安土城に招待することにしました。天正10年(1582年)の梅雨の頃の話です。

 同年5月15日、家康たちは安土城に到着すると、すぐに「金子3000枚と鎧300」を信長に献上し、領地が加増されたことのお礼を伝えています。また、穴山梅雪も信長に金2000枚を献上しています。金1枚あたり、現在の貨幣価値で250万円とする説もあり、それに従えば、家康は75億円、梅雪は50億円もの大金を信長に前納して、ご機嫌を取ったうえで、安土城での接待にあずかったということになりますね。なかなか老獪な人心掌握術ですし、同時にかなりの財力をすでに家康たちが有していたことがわかります。

 信長も彼らを出迎える準備をぬかりなく進めており、寵臣・光秀を抜擢し、大金を費やして珍しい食材を京・堺で調達させたようです。その内容は「天正十年安土御献立」として記録されているほどなので(『続群書類従』内、二十三下)、本当に腐った鯉などが出た失敗があったならば、この接待の記録自体が残されずに「なかったこと」にされているでしょう。つまり、史実において、安土城での家康の食事になにか特記すべき問題が起きていた可能性は低いと思われます。

 光秀は3日間、家康の接待役を務め上げると、家康のための宴が続いている安土城を後にして中国地方に侵攻していきました。ドラマでは接待の失敗により安土城から光秀が追い出されるようなので、3日目に接待役を途中解任されたということになるのでしょうか。しかし信頼性の高い史料とされる『信長公記』には当初から明智の接待役は3日限定だったという記述があり、途中で解任されたという可能性も薄そうです。(1/2 P2はこちら

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