『どうする家康』家康が「狸親父」へと化ける? 「家康=狸親父」イメージが生まれた背景
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『どうする家康』第25回「はるかに遠い夢」は、瀬名(有村架純さん)と信康(細田佳央太さん)の死の経緯について、かなりじっくりと描いていました。ドラマにおいて瀬名姫は最期の最期まで家康(松本潤さん)の愛妻であったようです。インターネット上には、『どうする家康』があまりに史実を無視しているという怒りのレビューも散見されましたが……。
悲劇的な内容だった第25回ですが、次回の第26回は「ぶらり富士遊覧」と題され、一気に空気が変わるようです。あらすじには〈家康は安土へ戻る道中に信長を接待したいと申し出る〉とありますが、実際に天正10年(1582年)4月、ついに甲斐国(現在の山梨県)において宿敵・武田勝頼を攻め滅ぼすことができた織田信長は、「かへさ(=帰っさ)に駿河路をへて富士一覧あるべし(=甲府から安土への帰り道には駿河湾を経由し、富士山を見ていくことにしよう)」と言い出しました。
かつては多くの室町将軍たちが、お供の行列を引き連れ、富士遊覧紀行を楽しんだ記録があります。信長がこの時期に「富士遊覧」を欲したのは、自身が室町幕府の将軍にも並ぶ「王者」となった証しを世間に見せつけると同時に、妻子を殺させた家康の自分への忠節をこのタイミングで再確認しておきたかったからだと考えられます。
史実の家康が信康を見限った背景にある嫡男問題
『どうする家康』の家康と瀬名は相思相愛で不仲の時期はなく、ドラマ公式サイト上で公開されたインタビュー記事でも、『どうする家康』の時代考証のひとりである平山優氏が、家康と築山殿の不仲を立証する史料は存在しないと主張していましたが、筆者には、不仲を示す決定的な史料もないが、仲がよかったという史料もあるわけではないというのが客観的な見方ではないかと思われます。
築山殿(瀬名姫)や信康と家康の関係が本当はどうだったかについては史料上、不明としかいいようがないのですが、江戸時代もかなり後期、天保3年(1832年)に成立した『改正後三河風土記』には、築山殿が家康に書いたという「恨み」の手紙が収録されています。
さすがにこれはフィクションであろうと考えられますが、岡崎城に据え置かれたまま、家康のいる浜松城には呼ばれずに別居状態が続いていた築山殿が、家康に手紙を書き、「我身こそ実の妻にして御家督三郎(=信康)の為めにも母なれば強ちに御賞翫あるべきことなり」と訴えたというのです。意訳すれば、「私こそが家康殿の正室です。そして、あなたの嫡男・信康の母でもあるのですよ。母が軽んじられている嫡男など、家臣が付いてくるでしょうか。だから、私をちゃんと愛してくださらないと」と迫る内容です。しかも、この願いを家康が聞き届けなければ、「一念悪鬼となりて(、)やがて思ひ知らせ参らすべし」……「私は悪鬼になって、あなたに思い知らせてやりますから!」と脅迫しており、厄介なニオイがぷんぷんしています。史実の築山殿は、こんな手紙を書くほど未練たらしい女ではなく、家康とは不仲なだけのような気もしますが……。
史実の家康も、嫡男の信康はともかくとして、正室の築山殿=瀬名姫に対しては、好意はおろか、ドラマのような強い思い入れなどなかったでしょうし、武田家が滅んで気分上々の信長の物見遊山に付き合っていても、死んだ妻子への良心の呵責は「ほぼ」なかっただろうと筆者には思われますね。
天正7年(1579年)8月3日、築山殿同様に言動を問題視された信康は、岡崎城を訪れた家康の命によって岡崎城から大浜城に移されました。その後も不自然に各地を転々としています。
ドラマでは、信長の目を欺いて愛する息子を逃そうとした家康が、他の城へ移す移動中に信康を替え玉とすり替えようとするも、信康自身がそれを了承しないために堀江城、二俣城と転々としてしまうという解釈で説明されていましたが、史実ではむしろその逆で、一定の箇所に信康を長く幽閉してしまうと、彼を哀れむ信康の家臣たちの手によって逃亡されかねなかったので、それを避けるために家臣たちと引き離すための方策として各地を転々とさせたのだと考えられます。
8月13日、家康は、側近中の側近である三河出身の武将たちをわざわざ集め、信康と連絡を取ることを厳禁としています。一方で岡崎城では、信康派の家臣たちの間で、信長や五徳姫、そして信長に五徳姫の告発状を届けた酒井忠次に対する怒りが爆発寸前にまで高まっていたそうです。
家康側近・松平家忠の証言によると、8月4日夜半、大雨の中、大浜城から信康が岡崎城の家康を密かに訪問し、無実を訴えましたが、家康は聞き入れようとしなかったといいます(『増補家忠日記』)。
徳川幕府の公式史『東照宮御実記』にも、家康が「嫡男」信康に対しては、突き放すような態度だったと書かれています。ドラマでは、信康の守り役を務める平岩親吉(ハナコの岡部大さん)が、自ら腹を切った信康にショックを受け、介錯しようとする服部半蔵(山田孝之さん)に「駄目じゃ!」と言って信康を守ろうとしていたのが印象的でしたが、『御実記』によると、平岩親吉は「自分が身代わりになるので、信康さまを逃してあげてほしい」と家康に直訴したそうです。しかし家康は、「三郎(=信康)が本当に武田家に内通しており、私に謀反しているとは思っていない」としながらも、「この乱世では織田殿におすがりすることだけが、徳川家が生き残る道なのだ」などと言って、その信長から嫌われた信康を生かそうとすれば、家康まで信長から嫌われて「累代の(徳川)家を亡ぼす」ことになるから、信康を助けることは許さないと断言しています。
嫡男の命に家康が固執しなかったのは、この年の4月7日、家康の最愛の側室のひとりとされるお愛の方(ドラマでは広瀬アリスさん演じる於愛の方)との間に、長松(あるいは長丸)がすでに誕生していたことが大きかったと思われます。この男子は後の二代将軍・徳川秀忠です。
武家の慣習では、「嫡男」になれるかどうかには第一に正室の子であることが重視され、生まれた順番は問われませんでした。つまり、正室である築山殿や、彼女との間に授かった信康が生きているかぎり、家康の最愛の側室・お愛の方が生んだ長松は嫡男にはなれないわけで、家康が長松を嫡男にしたい場合、築山殿と信康は「邪魔」になるわけです。このような“大人の事情”もあり、折り合いの悪かった妻との間に生まれた子である信康に自分の跡を継がれるより、消えてもらったほうが好都合……くらいのことを、史実の家康は考えていてもおかしくなかったのかもしれません。(1/2 P2はこちら)
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