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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 家康の「美少年好き」と井伊直政
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』井伊直政が登場! 家康の「美少年好き」設定はドラマでどうなる?

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』井伊直政が登場! 家康の「美少年好き」設定はドラマでどうなる?の画像1
阿月(伊東蒼)と お市(北川景子)| ドラマ公式サイトより

 第14回の『どうする家康』は、恐れているはずの信長(岡田准一さん)に対し、家康(松本潤さん)が「あほ! たわけ!」と叫んだことにビックリさせられましたが、それ以上に驚かされたのが、オリジナルキャラクターの阿月(伊東蒼さん)が大きく取り上げられ、浅井家の居城・小谷城から金ヶ崎への10里(約40キロ)を走り抜くという、『走れメロス』のような、あるいは古代ギリシアの「マラトンの戦い」のようなストーリーでした。

 阿月はどうやら没落した武士の娘のようで、少女の頃には男の子たちよりも俊足という高い身体能力の持ち主でしたが、父親から「女が一丁前に走るな」といわれ、300文の対価で(おそらく)下女奉公に出されるという不幸な境遇にありました。雇家からの逃走を試みたのか、盗み食いしているところを浅井家の使用人、そしてお市(北川景子さん)に見つかったことで、お市と阿月に不思議な縁が生まれたようです。

 父親から「(女は)足を開くな」と躾けられた阿月が、心の縛りから解き放たれ、着物の裾を破り、歩幅を大きく取って走り出す瞬間はとてもよかったですね。残念ながら『走れメロス』のようなハッピーエンドとはならず、浅井長政(大貫勇輔さん)の裏切りを伝えるという使命を果たした彼女は“マラトンの戦士”同様に絶命してしまうのですが……。

 お市が救おうとしたのがあくまで家康であり、彼女の夫・浅井長政が討とうとしている兄の信長ではなかったという描かれ方もよかったと思います。その後、長政の死までお市と長政の夫婦関係が続いたことの説明となりうるからです。

 次回・第15回「姉川でどうする!」もなかなか興味深い内容になりそうです。メインとなるのは信長による浅井追討戦の開始でしょうが、本多忠勝(山田裕貴さん)らの槍をかわしながら家康に接近し、アクロバティックな動きを見せた「美少女」が、板垣李光人さんであることがネットで話題となりました。

 板垣さんが演じるのは、徳川家康にとってある意味で「最愛の人」ともいえる井伊直政です。しかしここでひとつ疑問なのは、ドラマの時間軸が、前回は「金ヶ崎の戦い」~次回が「姉川の戦い」ということを考えれば、まだ永禄13年(1570年)のはずという点です。仮に次回で浅井長政の討ち死にまでが描かれたとしても、それは天正元年(1573年)9月のことですから、当時の直政はまだ13歳の少年にすぎません。しかし『徳川実紀』(以下、『御実紀』)によると、家康と直政の初対面の記録は天正3年(1575年)なのです。つまり、ドラマでは史実より数年以上も早く、家康と直政が出会うということになってしまいます。

 しかもドラマでは、女装した直政に家康が襲われるという衝撃的な展開になるようで、これにはどういった制作意図が秘められているのでしょうか。 

 予告映像の直政は花笠のようなものを被っているので、家康の宴会に呼ばれた芸能者たちに紛れていたのか、もしくはどこかの祭りに参加した地元の女性に成り済ましていたのでしょうか。宴席に女装して紛れ込み、敵の大将を狙うというのは、まるでヤマトタケルの神話を想像させますが、ともかくドラマの直政は何らかの意図をもって、家康に通常では考えられない手段で接近を試みたのだろうということはわかります。

 直政が幼少期のころの井伊家は、今川家に仕えていました。しかし今川義元とともに当主の井伊直盛も戦死し、家康が今川家から独立したせいで、井伊家と今川家との関係も悪化し、没落してしまいます。直政はその「非」を家康に詰め寄り、直に認めさせようとしているのか……?とも考えられますね。

 史実では天正3年、家康が鷹狩りに出向いた場で弱冠15歳の井伊直政と出会い、初対面の場でありながら、家康は彼を300石というなかなかの高待遇で正式に家臣として雇用しています。しかし、家康はよくいえば「思慮深くて倹約家」、悪くいえば「人を信じられず、ケチな人物」として『御実紀』で描かれており、「公式」ですらそんなキャラ設定である家康がこんな大抜擢をしたのは異例中の異例というしかありません。『御実紀』全体を見回しても、こういった即断を家康が下したケースはほとんどありませんし、とても不自然な印象です。2人の出会いに何らかの裏事情があったとの想像が働いてもおかしくはありません。

 その説明の一つとなりそうなのが、家康の「好み」です。興味深いことに、「思慮深くて倹約家」という『御実紀』における家康の公式キャラの設定にはもう一つ、「美少年好き」というものがあるのです。

 詳細な時期は不明とされていますが、『御実紀』(『東照宮御実記』付録巻十七)には“美少年絡み”でこんなエピソードが載っています。家康の「好み」を察した甲斐の武田信玄が刺客として家康のもとに美少年を送り込み、家康はこの美少年から寝首をかかれそうになります。運良く助かることができましたが、家康はなぜか「主君(信玄)のために身体を張っているお前は偉い」といって罰のひとつも与えず、甲斐に戻してやったそうです。結果的に、「神君」家康の器はでかい、と主張する内容になっているものの、「公式」に「美少年にめっぽう弱い」という家康の一面が描かれているのは、やはりそれが短所として江戸時代でも認識されていたからでしょう。(1/2 P2はこちら

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