『どうする家康』で怪しい千代は、武田信玄に仕えた伝説の女忍者がモデル?
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
※劇中では主人公の名前はまだ「松平家康」ですが、本稿では「徳川家康」に統一しております。家康に限らず、本連載において、ドラマの登場人物の呼び方は、原則として読者にとってなじみの強い名称に統一します
『どうする家康』第8回は、俳優さんたちの演技に目を奪われるシーンが多くありました。主演の松本潤さん演じる家康は、頼りなく見えることがまだ多いものの、時折、キリッとした表情になるので、そのギャップが面白いです。
前回のコラムで予想した通り、一揆を率いる「軍師」は本多正信(松山ケンイチさん)だったわけですが、ドラマの正信は、何のためらいも見せずに家康を火縄銃で狙撃していました。正信は、一揆方についた土屋長吉重治(田村健太郎)を利用し、長吉の言葉を信じて家康がやってくるのを本證寺の屋根の上で待ち構えていたわけで、明らかな殺意が感じられました。
ドラマでは、家康の家臣の離反は、信仰心の問題だけでなく、歩き巫女の千代(の裏にいる何者か)の工作によって起こったものという解釈で描かれているように感じられました。史実では本多正信の裏切りは信仰心によるものとみられていますが、ドラマの正信はとてもそのようには見えません。主君を殺そうとしている時ですら、うっすらと微笑んでいるかのように見えた正信の表情はこの上なく不気味でした。しかし、一方で主君を暗殺した後に自分が成り上がろうといった野心も見えず、アナーキスト的な存在なのでしょうか。正信が家康を裏切った真意はどこにあるのか、ドラマでどう描かれるかが非常に楽しみです。
前々回のコラムでは、本證寺に出入りしている歩き巫女の千代(古川琴音さん)というドラマのキャラクターのモデルが、武田信玄の隠密だったといわれる望月千代女ではないかともお話ししましたが、その可能性も濃厚となってきましたね。今回は謎めいた千代という人物、そして彼女のモデルと思われる望月千代女について、掘り下げたいと思います。
『どうする家康』の家康は服部半蔵(山田孝之さん)と配下の服部党を重用していますが、実際に家康やその他の戦国武将にも忍びの者を使った逸話が多くあります。なかでも忍びとの関係がもっとも深い戦国武将の一人が、武田信玄だといわれます。
忍者関係の古文書として知られる『万川集海(まんせんしゅうかい)』には、信玄が名将と呼ばれるようになったのは忍びを巧みに使いこなすことができたからだという記述が見られます。同書にいわく、信玄は「忠・勇・謀(=忠義、勇気、はかりごとに)巧みに達したる者を三十人抱え置きて、禄を重くし賞を厚くして間見、見分、目付と三つに分け、その惣名(=総称)を三者(みつもの)と名付けて、常々入魂ありて軍事の要に用い給い」たそうです。「間見」は、遠くの敵を観察し、「見分」は敵に近づいて観察する役割です。また、「目付」とは、敵の陣中などに紛れ込んで、内情を偵察してくる役割のことですが、信玄が独創的なのは、一人の忍びにこれら3つの仕事をすべて負わせるのではなく、それぞれを得意とする者たちを集め、チームで活動させたという点です。
信玄は戦を始める前に、当時重要視された「日取り、方取り(=作戦決行日時の吉凶を占う行為。当時の軍師=軍配者の主な仕事)」と同様に「三者」を用いることを重視していたといい、「隣国の強敵と戦いて一度も不覚を取らざること、全く三者の功なり」とあります(『万川集海』)。「三者」という忍びのチームの活用に長けていたというわけですね。
『万川集海』によると、信玄は(ハニートラップなど)男性忍者にはできない内容の仕事をこなす女性忍者、いわゆる「くのいち」を考案し、自らの手で彼女たちを育成したとされています(ちなみに同書によると、「くのいち」に対する男性忍者の別名が「たぢから」です。女という字を分解したのが「くのいち」であるように、男を「田」と「力」に分けているのですね)。そして「くのいち」集団のリーダーが、『どうする家康』に出てくる千代のモデルと考えられる望月千代女でした。
もっとも、「三者」という表現は、江戸時代はともかく、戦国時代の文献には見当たらず、望月千代女率いる女性忍者集団の情報も戦国時代の信頼できる文献には登場しません。そのため大半の研究者には、実在した可能性はないと判断されてしまっています。それでも、信玄にまつわる忍者伝説のすべてをフィクションだと言い切れるのかというと、そうともいえない気が筆者にはします。(1/2 P2はこちら)
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