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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』五徳姫の「信長に言いつける」は9年後に起こる悲劇の伏線?

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』五徳姫の「信長に言いつける」は9年後に起こる悲劇の伏線?の画像1
信康(寺嶋眞秀)、五徳(松岡夏輝)、瀬名(有村架純)ら | ドラマ公式サイトより

 徳川家康が正室・築山殿と嫡男・信康を粛清したことは、彼の人生における悲劇のひとつだと語られています。ドラマ『どうする家康』では家康(松本潤さん)と瀬名姫(有村架純さん)の関係はずっと良好なままですが、史実の二人は別居したまま、交流らしい交流もなくなっていたようです。しかし、家康にとってさらなる頭痛の種は、彼の嫡男・信康でした。

 一家の不仲は、思いもしなかった結末を迎えています。築山殿は滅敬(めっけい)という唐人医師と不倫し、武田家と内通していると疑われ、天正7年(1579年)8月に家康の家臣の手で殺害されます。同年9月15日には信康も謀反の罪を問われて、二俣城にて自害させられました。この事件の直接の原因は、信康の正室・五徳姫が父・信長に書いた10箇条もしくは12箇条の“告発状”にあり、「築山殿が武田家と密通している」という部分は特に看過できないと判断した信長が、築山殿と信康の母子を粛清するよう、家康に命じたのだ……と語られることが一般的です。

 ドラマでもこうした通説にのっとって、五徳姫(松岡夏輝さん)が、家康や瀬名姫、信康(寺嶋眞秀さん)のうるわしい家庭を崩壊させるきっかけとなりそうですね。第13回で、信康とケンカした五徳姫が、瀬名に謝れと言われても無視し、「父上に言います」と信長に告げ口すると宣言していたのはその伏線かもしれません。

 しかし、築山殿と信康の死は、実際のところは家康によって練り上げられた計画殺人であり、五徳姫はその協力者という立ち位置にいたのではないか、と筆者は考えています。

 上洛が描かれたドラマ第13回はすでに永禄13年(1570年)となっていましたが、その3年前の永禄10年に、家康の嫡男・信康は同い年の信長の娘・五徳姫と結婚しました。当時まだ9歳でした。ドラマの五徳姫は気難しく、気立てのやさしい信康とは正反対。気に入らないことがあると手をあげるような女の子として描かれていました。家康は五徳姫と信康の仲を取り持つため、南蛮伝来の珍しい「コンフェイト(=金平糖)」を京都から持ち帰る約束をさせられていましたね。

 史料が少ない五徳姫ですが、家康は、実子の信康以上に義理の娘の五徳姫を可愛がっており、信頼していたのではないかと筆者には思われます。その理由は後ほどお話しするとして、まずは信康について説明しましょう。実は彼は問題が多すぎる人物でした。

 天正3年(1575年)、信康はまだ17歳でしたが、「長篠の戦い」で武功をあげるなど武将としての才覚をすでに発揮していました。しかし、その一方で、彼には暴力的で残酷な傾向もありました。江戸時代前期に成立した『当代記』が信康の問題行動について書き記すようになったのは、天正4年(1576年)以降のことです。

 岡崎城城主となった信康は、踊りの見物を好み、近隣の村人たちを集めては当地で流行している踊りを披露させていました。しかし、踊り手の服装が貧相とか、踊りが下手だと感じた際に面白半分で射殺してしまうことがあったそうです。家臣たちから非難されると、「敵の間者だから殺した」などと苦しい言い訳をしたそうですが、信康の異常な行動を知った家康は「悪いことをしているとは思ったが、あえて注意しなかった」と、なぜか具体的な処罰を行いませんでした。それゆえ、この事件はフィクションだと考える学者もいます。事実であれば、さすがに信康が廃嫡されても仕方のない所業でしょうから。

 しかし一方で、このようにも考えられます。信康の正室は、信長の娘の五徳姫であり、彼らの結婚生活は、織田・徳川両家の「清洲同盟」の象徴でした。信康を断罪し、嫡男から降格させることは、その正室・五徳姫のステイタスをも落とすことであり、それゆえに家康は信康に罰を与えられなかった可能性もあるのではないでしょうか。

 また、信康の問題行動については、『当代記』より50年ほど後に成立したと考えられる『松平記』にも記されています。こちらでは、信康の粗暴さや非情さが原因で五徳姫との夫婦仲が悪化していたことに加え、信康との間に授かった子が二人とも娘だったことについて、信康だけでなく築山殿までも「女の子なんて要らない」と五徳姫に怒り、姫の感情を害したという話が載っています。

 『松平記』の記述には話を盛った部分が多く、完全に信じることはできませんが、より史実に近いであろうと考えられる江戸時代初期成立の『岡崎東泉記』という史料にも、岡崎城を築山殿が訪れた際、信康と五徳姫夫妻とともに食事をとった時のエピソードとして、彼らの不仲を伝える話がよりリアルに語られています。

 「兼ねて御中(=仲)、好(よ)からざりし」信康と五徳姫だったが、この時、「信康公楊枝を通させ給いし時、御前様(=築山殿)に『(楊枝を)御取り給われ』と御申し候えば、(五徳姫は)御返事もなくして御座ありし」……楊枝を使って歯間の食べかすを取っていた信康が、五徳姫に向かって、母上(=築山殿)にも楊枝を取って差し上げろ、と言ったところ、五徳姫は返事もせず、(おそらく信康の行儀の悪さに呆れ果てて)黙って座っているだけだった。すると「信康公、局(=五徳姫)を大き御叱り、諸事仕付け悪しき」……信康はそんな妻を大声で「親の躾が悪いから、お前はそういう態度を取るのだ!!」と叱りつけたところ、自分だけでなく、両親のことまで悪く言われた五徳姫は「其の事をふくれて」、ついに「信康公の御事十箇条」を書きつらねて、信長に送ってしまったのだそうです。

 このように五徳姫との関係は最悪だったとみられる信康ですが、徳川家の家臣たちの評価も最悪でした。江戸時代初期に石川正西という武士が戦国の世を知る人々からの情報を集めた『石川正西聞見集』には、信康が「悪戯なる事ばかり成され候まま、御下衆難儀仕られ候」とあり、家康は(おそらく前述の怒るに怒れないという理由で)問題児・信康を放置し続け、家臣たちも迷惑を被っていたことがうかがえます。

 家康のこうした「放任主義」とは対照的に、信長のほうが信康と向かい合おうとしていたと思われる記述もあります。もちろん愛娘・五徳姫のためでしょうが……。

 信長は、三河地方の吉良(現在の愛知県西尾市)まで足を伸ばし、鷹狩りを行うことがありました。注目されるのは、天正3年(1575年)以降、信長は毎年末、三河・吉良を鷹狩りで訪れていたことです。いうまでもなく三河・吉良から岡崎城はさほど遠くはなく、正式に岡崎城に信長が立ち寄ったという記録がない年でも、なんらかの形で信康・五徳姫とは対面していたのではないかと思われます。

 そして、瀬名姫と信康が命を落とすその1年半ほど前にあたる天正5年(1577年)12月と天正6年(1578年)1月にも、信長は三河・吉良の地で連続して鷹狩りを行った記録があります。つまり、この鷹狩りの本当の目的は、岡崎城を訪問し、信康と五徳姫の間に起きた深刻な夫婦トラブルを調停することだったのでは、とも考えられるのです。それゆえ、信康の不品行を語る逸話には、一定の信頼が置けると筆者には思われます。

 信長が、信康・五徳姫の夫婦関係の修復を試みていたのならば、その場に家康もいないとは考えにくく、おそらく二人の手で、織田・徳川両家の同盟の象徴である信康・五徳姫夫妻の仲裁をしていたのではないでしょうか。しかし、仮にそうだったとしても、残念ながら関係修復は実現しなかったことになりますが……。(1/2 P2はこちら

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