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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』上洛戦へ――なぜ信長は足利義昭を将軍にしたのか

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』上洛戦へ――なぜ信長は足利義昭を将軍にしたのかの画像1
織田信長(岡田准一) | ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』第12回は、今川氏真役の溝端淳平さんの好演が光りました。溝端さんは声が良いですね。台詞回しも格調高く、「悲劇の貴公子」としての存在感が抜群でした。父・今川義元が教育に失敗したとの説まである氏真ですが、ドラマの義元(野村萬斎さん)からの評価は、まだ若い現時点では「将としての才はない」ものの、「夜明けから夜半まで武芸に学問に誰よりも励んでおる」努力家であることは認められており、「己を鍛え上げることを惜しまぬ者は、いずれ必ず天賦の才ある者をしのぐ。きっとよい将になろう」と評されていました。

 しかし、義元が嫡男の将来に期待を抱いていたことは氏真には伝わっておらず、義元が桶狭間で織田信長に討ち取られたことで、氏真は父の真意を知ることがないまま、父親(や家臣)に認めてもらえないとコンプレックスをこじらせていきました。そんな氏真は、皮肉にも掛川城での徳川軍との泥沼の攻防戦の最中、「将」として覚醒します。氏真は数少ない兵を鼓舞し、自身も最前線で弓を引いて戦い、4カ月という長期間、善戦し続けます。しかし、ついに敗戦が確定し、家康との一騎打ちにも敗れ、自害しようとした氏真を引き止めたのは、正室・糸(志田未来さん)の口を借りて伝えられた、尊敬する父・義元の言葉だったのです。

 今川氏真という役に、俳優としての溝端さんが完全にシンクロし、氏真として生ききっている感がありました。また、そんな氏真を変わらず兄として慕っているという、家康役の松本潤さんの演技もとてもよかったと思います。放送前は、「今年の大河は『気弱なプリンス』として家康を描くといわれても、松本さんは美しすぎて、家康にしては少々線が細いかも……」などと思っていたのですが、松本さんにしかできない家康の像がここのところ毎回のように提示されているような気がします。

 第13回は、織田信長(岡田准一さん)が足利義昭(古田新太さん)を奉じ、妹婿の浅井長政(大貫勇輔さん)や家康と共に上洛に成功するという話が中心になりそうです。

 しかし、最後の室町将軍と、最初の徳川将軍の出会いが永禄11年(1568年)にあったとするのはドラマの虛構です。実際の家康は、第12回のラストでも描かれたように武田信玄との関係が急速に悪化したため、本国・三河から離れられず、自身の名代として松平信一(まつだいら・のぶかず)を送っただけだったといわれています。

 次回予告に一瞬映っただけにもかかわらず、白塗りの化粧で「違うだろ、松平!」と家康を一喝する義昭に早くも話題が集まっていましたが、『どうする家康』では義昭=徹底的に世俗的な愚物として描かれそうです。第13回のあらすじには「義昭に謁見した家康は、将軍の器とは思えないその愚かな振る舞いに戸惑う」とあり、武家の棟梁たるべき将軍・足利義昭の実像に、家康は失望してしまうようですね。

 今回は足利義昭という人物と、彼を奉じて上洛した信長の真意について少しお話ししようと思います。

 永禄8年(1565年)、三好長逸を中心とした、いわゆる「三好三人衆」などの対抗勢力に攻められ、足利義昭の兄・義輝(室町幕府13代将軍)が暗殺される大事件が起きました。世にいう「永禄の変」です。

 室町幕府の将軍は、由緒正しき血統の持ち主というカリスマ性はあっても、他大名を圧倒するほどの軍事力・経済力はなく、各地の有力大名が将軍を支え、その権力を保証しているだけでした。それゆえ、将軍といえども「専制君主」として君臨はできなかったのです。在りし日の13代将軍・義輝も、その血統による権威を背景に大名間のトラブルを解決する仕事をこなしてはいたのですが、「永禄の変」はその現役の将軍が臣下とのトラブルの末に暗殺までされてしまったわけで、室町幕府の権威失墜を世に知らしめることになりました。

 「永禄の変」勃発当時、奈良の興福寺・一乗院の門跡として覚慶(かくけい)と名乗っていた足利義昭にも暗殺の手が忍び寄りますが、彼はなんとか寺を脱出、近江(現在の滋賀県)に移動して命拾いし、支援してくれる大名を頼って各地を流浪する日々が始まります。2020年の大河『麒麟がくる』ではこうした背景も描かれていましたね。

 上杉謙信も義昭から頼られた一人ですが、義昭の不幸な境遇に同情はしても、具体的に彼の上洛と将軍就任を手助けしようとはしませんでした。そんな中、世間から見ればただの新興勢力にすぎない信長だけが名乗りを上げ、永禄9年(1566年)9月、義昭・信長による「第一次上洛計画」が始動しました。信長にとっては、功名のための「投資」のような行動だったのではないか、と思われます。

 しかし、このときは信長が美濃の斎藤家との戦を始めてしまい、敗戦したことで計画はすぐさま頓挫することに。義昭は信長のもとを離れ、越前・朝倉家の保護を受けるようになったものの、上洛は果たせませんでした。

 それから2年ほど経過した永禄11年(1568年)7月、信長が再度、義昭に全面協力すると申し出たので、義昭は信長のいる岐阜に移動し、彼らの「第二次上洛計画」がスタートしたのでした。(1/2 P2はこちら

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