『どうする家康』父・今川義元は子育て失敗? 「グッドルーザー」となった氏真
#大河ドラマ #溝端淳平 #どうする家康 #大河ドラマ勝手に放送講義
──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『どうする家康』第11回は、お田鶴(関水渚さん)を中心に描かれました。譲れない理想のために命を散らせる彼女の生き様が、椿の花の散り際と重なって涙を誘う内容だったと思います。
第12回のサブタイトルはその名も「氏真」で、次回も敗者の美学が描かれそうです。予告映像では家康(松本潤さん)が「なぜそこまで戦う……氏真……」とつぶやく場面もありました。なかなか降伏しない氏真(溝端淳平さん)との全面対決を続けねばならない家康は戸惑うようです。
父・今川義元(野村萬斎さん)に「私はそれほど頼りのうございますか!」と詰め寄り、「そなたに将としての才は、ない」ときっぱり言われてしまう場面もあるようですが、『どうする家康』の監修者にも名を連ね、戦国時代の今川家研究の大家である小和田哲男氏は、義元が氏真の子育てに失敗していたという説を唱えています。
今川義元が今川家の勢力を大きく拡大し、「海道(=東海地方)一の弓取り」と称賛されるようになったのは、彼に優秀な軍師・太原雪斎(太原崇孚)がついていたからです。しかし、なぜか義元は、氏真の教育に雪斎を関与させた形跡がありません。ドラマの氏真も、自分以上に義元から可愛がられていた家康に対して、コンプレックスを募らせている様子でした。
史実の義元も、「人質」の家康には雪斎をつけて軍事を学ばせていましたが、一方で嫡男の氏真には、京都から駿府を訪れた当代一流の文化人の公家たち……たとえば和歌の大御所として知られた冷泉為和、蹴鞠宗家の当主として名高い飛鳥井雅綱らを付けて、文化面での英才教育に余念がなかったそうです。
現代人には奇異に映る教育方針かもしれませんが、最近の研究では、永禄元年(1558年)ごろ、義元は21歳の若さの氏真に家督を譲り、今川家の当主としていたようです。義元は、息子のことは他人に任せるのではなく、自分の手で理想の大名に育てあげようと考えていたのかもしれません。
ドラマ第10回では、将軍(=足利義輝)が討ち死にしたという知らせを聞いた信長(岡田准一さん)が不敵に微笑むシーンがありましたが、それ以前から足利将軍家が根底から揺らぎつつあったのは明白で、義元が「天下」を狙っていたかまでは不明ながら、この隙に京都の政界にもさらなる影響力を持とうとしていたのではないか、と考えられます。そのために義元は、今川家の新当主・氏真に京都の上流社会で強い影響力を持つ公家たちと深い関係を築かせ、将来、今川家が京都に進出できるよう画策していたのではないでしょうか。軍事方面などは、部下たち(たとえば徳川家康)に任せておけばよいという判断です。
義元の時代の今川領国も、朝比奈家、岡部家といった複数の重臣たちの寄り合い世帯にすぎず、義元の強いカリスマとリーダーシップがあって、ひとつにまとめあげられている状態でした。『鎌倉殿の13人』でも描かれたように、日本は平安末期から、都(京都)の上流階級との血縁があったり、文化的交流がある人物はカリスマ的な存在とみなされ、それはこの戦国期も同じでした。ゆえに義元は、嫡男である氏真には自分以上に文武両道のカリスマとなってほしかったのではないでしょうか。その教育は結局失敗してしまったのかといえば、そのとおりではあるかもしれませんが、義元は義元なりに嫡男・氏真への「帝王学」伝授に余念がなかったのは事実だと考えられます。特に芸術関係については、昔も今も早期教育が重要ですから。
しかし、義元の早すぎる死は、氏真の教育が途中で終わってしまうことを意味しましたし、当然、義元のカリスマ性によってまとまっていた家臣団の忠誠心も大きく揺るがしました。それも新興勢力にすぎない織田信長との戦における無惨な敗死となれば、なおのことです。
こうした状況の中で、最初に今川家に反騎を翻し、織田信長と同盟を結んだ徳川家康が今川家臣団に与えた影響は大きく、「身内」に近い人物の離反さえ食い止めることができなかった氏真は、今川家を背負うには未熟だと周囲から判断されてしまったようです。(1/2 P2はこちら)
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