GLAYとレゲエ~ビッグビート~R&B 進化し続ける「伝説のバンド」の音楽的挑戦とは
#GLAY #TOMC
ビート&アンビエント・プロデューサー/プレイリスターのTOMCさんが音楽家ならではの観点から、アーティストの知られざる魅力を読み解き、名作を深堀りしていく本連載〈ALT View〉。今回は、累計CDセールス4000万枚以上を誇るなど輝かしい記録を数々持つロックバンド・GLAYについて、代表的なヒット曲のイメージに留まらない彼らの音楽的冒険にフォーカスして語っていただきます。
いきなりだが「GLAYの音楽的冒険」と聞いてピンと来ない方は、まずこの曲を再生してみてほしい。
これは、GLAYの代表曲「HOWEVER」(‘97)のカップリング曲「I’m yours」の、ギターHISASHIによるリミックスバージョンである(2003年の『rare collectives vol.2』収録)。環境音のSEを添えたホラー仕立ての導入部から、打ち込みを軸にしたラヴァーズ・ロック的なリズムへと流れ込み、原曲のサビを一瞬見せた途端に轟音のギターとスクラッチが交錯し始める。その後もトラック全体にディストーションをかけたような破壊的なセクションが登場したり、ボーカルを大幅にハイピッチにしたり……といった具合に、例えばベックなど同時代の実験的作風の音楽家に通じる、非常に遊び心溢れる仕上がりとなっている。
HISASHIはエコー&ザ・バニーメンやバウハウスなどのニューウェイヴのバンドがルーツにあり、その後DEAD ENDやTHE WILLARDなど、日本国内のインディシーンを賑わせたアグレッシブなサウンドを持つバンドに影響を受けたという。このリミックスは、自身のポジションについて「GLAYをスパイしている」と評し、「視覚的・思考的に世の中のレールからはみ出している状態が好き」【※1】と語る彼ならではの、現在一般的に知られるGLAYの音楽性から派手に逸脱したサウンドが楽しめる作品だ。
【※1…「別冊宝島617 音楽誌が書かないJポップ批評15 GLAYの過去・現在・未来」(宝島社)より】
「国内メインストリームのバンドサウンドの総決算」だった90年代後半のGLAY
ここで、多くの人がイメージする「GLAYの音楽性」について振り返っておきたい。大半のシングル楽曲の作詞・作曲を担うTAKUROがジョン・レノンからの多大な影響を公言していることに象徴されるように、GLAYがトップバンドへと上り詰めていった1996年~2000年頃に発表された楽曲は、60~70年代の国内外のポップ・ミュージックに通ずるサウンドが色濃いものとなっている。あまり指摘されないが、こうした当時のGLAYのややレトロとも言える方向性は、90年代中盤にMr.Childrenが小林武史とともに国内に浸透させたバンドサウンドと重なるものがあるようにも思える。
加えてこの時期は、90年代前半に地下シーンで隆盛を極めた“ヴィジュアル系”と称されるムーヴメントに出自を持つバンドが徐々にメインストリームに浮上し始めているタイミングでもあり、GLAYはそれに通ずるデカダンでスリリングな雰囲気を纏ったシングル「口唇」「誘惑」をリリースする懐の広さも兼ね備えていた。もちろん、GLAYはヴィジュアル系の数あるルーツの一つとされるビートロック(特にBOØWY)やパンク等からの影響があることも広く知られているが、彼らが「60~70年代のポップ・ミュージック」「それ以後のビートロック~パンク」の2つのテイストを違和感なく両立した活動を展開できた背景には、80年代にBOØWYをスターバンドに導いたことで知られ、「バンドのやりたいこと」をベースにディレクションを行う「調整型」の名プロデューサー・佐久間正英の貢献も大きいように思える。
このように「60~70年代の国内外のポップ・ミュージック(Mr.Children等に通じる)」「それ以後のビートロック~パンク(ヴィジュアル系ブームに通じる)」の2つの参照元を持った90年代後半以後のGLAYは、間違いなく時代とシンクロしていた部分があり、当時の「国内メインストリームのバンドサウンドの総決算」だったとも言えよう。そうした時代との強い親和性と、セールスやライブ動員面で前人未到の頂点を極めたタイミングが重なったがゆえに、多くの人にとってGLAYのイメージがこの時期のものに固定化されてしまうのも、ある意味ではしょうがないだろう。しかし、だからこそGLAYの音楽性は「正当な評価を受けていない」ように思えてならない。本稿は、まだファン以外にはあまり知られていないGLAYの魅力を紹介し、掘り下げていく試みである。
レゲエにビッグビート…ドラマーの“空席”が生んだ音楽性の拡張
GLAYの正規メンバーにドラムはいない。4人組のバンドではあるが、編成はボーカル(TERU)、ギター(TAKURO・HISASHIの2名)、ベース(JIRO)である。ドラムは1995年以降、氷室京介やCHAGE and ASKA、西城秀樹などのバックを務めた名手Toshi Nagai(永井利光)が多くの楽曲でプレイしているのだが、この「テクニカルなサポートドラマー」の存在がバンドにもたらした影響は少なからずあるように思える。
例えば「HOWEVER」は王道のバラードのように思われがちだが、Aメロのリズムにぜひ着目してほしい。当時「レゲエのリズムを取り入れた」とも評された【※2】、細かいゴーストノートが散りばめられている独特のシャッフルビートは、本曲に一般的なロックバラードに留まらない奥深さを付加しているように思える。
【※2…1997年の「ロッキンf」(立東社)レビュー(GLAY公式サイト https://www.glay.co.jp/news/list/4/53/?page=2 より)】
それでいて、「neuromancer」(1996年のシングル「a Boy ~ずっと忘れない~」カップリング曲)や「嫉妬(KURID/PHANTOM mix)」(2001年のアルバム『ONE LOVE』収録)のような打ち込みビートのデジタルロック~ビッグビート方面の楽曲も並行してリリースしていけたのは、ドラマーが正規メンバーではないゆえに柔軟な選択肢を持てたからだろう。同時代に活躍したバンドである黒夢にも同じことが言えるが、正式メンバーとしてのドラマーが固定されなかったことは、結果的にGLAYがリリース毎にアレンジの幅・音楽性を大きく拡張し続けてくアシストになっていたのではないだろうか。
音楽性の拡張ぶりが最初に頂点を迎えたのは2001~2002年だろう。レゲエビートを前面に打ち出したシングル「ひとひらの自由」(‘01)。デジタルロック的なアレンジを中心に、各曲さまざまなキャラクターを持つGLAY流のビートルズ『ホワイトアルバム』的な大作『ONE LOVE』(‘01)。そこからわずか10カ月後にリリースされた、R&B~ゴスペルに通じるアレンジも含む『UNITY ROOTS & FAMILY,AWAY』(‘02)。生ドラムとマシンビートの使い分けや1曲内での併用はますます巧みになっており、結果としてギター2人を要するロックバンドとしては異例の幅広いテイストを取り入れることに成功している。
もっとも、2002年にはブレイク前後のGLAYらしいバンドサウンドを聴かせる「Way of Difference」「またここであいましょう」などもリリースされている。こうした回帰的な作風は当時の集大成的なメジャーデビュー10周年記念作『THE FRUSTRATED』(‘04)に繋がるが、一方で同作には東京スカパラダイスオーケストラを招いたスカ・チューン「BLAST」など、明らかに新境地を思わせるナンバーも含んでおり、この『THE FRUSTRATED』をもって、以後のGLAY作品における「革新/保守のバランス」が確立されたように思える。(1/2 P2はこちら)
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