『鎌倉殿』の愛されキャラとは異なる、「知性と剛腕を兼ね備えたリーダー」北条時政
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『鎌倉殿』では描かれなかった“切れ者”としての時政
時政の名前が歴史に登場してくるのは、平治元年(1160年)に起こった「平治の乱」の戦後処理として、伊豆国の北条家の所領へ流罪にされた源頼朝の監視役としてです。
『鎌倉殿』の序盤では、名誉ある京都御所での仕事から帰ってきた時政の姿が描かれていました。ドラマではそのあとで頼朝と政子が恋仲になっていましたが、『吾妻鏡』では少々違っていて、ふたりが結ばれたのは時政が伊豆を留守にしている間のことで、戻ってきた時政は断固反対の立場を貫いたものの、めげない政子の意思の強さに根負けし、彼らの結婚をついに認めることになったそうです。
その後、時政率いる北条一族は、政子の夫となった頼朝による反・平家の蜂起に乗っかる形で、かなりの浮き沈みを経験しつつも、大幅な階級上昇を遂げていくのでした。
ドラマの時点では平賀朝雅がその任にある「京都守護」ですが、これは北条時政が初代を務めた職であり、時政の在任は短期間ではあったものの、立派に務め上げていたことが当時の公家たちの日記からわかっています。史実に見る北条時政の人物像は、ドラマにおける「愛され上手の親父さん」のキャラとは相当に異なっているようです。
『鎌倉殿』の時政は細かい配慮が苦手で、主にムードメイカー的な存在ですが、ドラマの義時が主に担当してきた交渉ごとなどの実務に、史実の時政は非常に長けていたことが知られています。源頼朝の命を受けた時政は、頼朝の代理人として、京都の朝廷でまるで外交官のような働きを見せたのです。
京都の上流階級の目には、関東の田舎からやってきた時政は確実に“異物”と映ったでしょう。時政は、彼が連れてきた多くの武士たちによる「力」でもって、「権威」をねじ伏せようとしていると警戒されたでしょうから、余計に反感の対象となっていたはずです。
『吾妻鏡』は当時の時政のことを「事において賢直、貴賎の美談するところなり」――「その実直な人柄で、時政は京都中で評判になった」と褒め称えていますが、九条兼実の『玉葉』には「時政の言動が田舎者丸出しで、貴族たちの失笑を買った」という記述も見られます。
時政の鎌倉武士そのものの率直すぎる言動は、貴族社会では驚き呆れられることもあったわけですが、結局、兼実も最後には時政のことを「近日珍物歟(きんじつのちんぶつか)」と評し、彼の政治家としての実力を認めざるをえませんでした。
平氏滅亡後、源義経が兄・頼朝への叛意と取られる行動を見せるようになり、義経の要請で後白河院が頼朝追討の院宣を出しました。しかし、兵を集められなかった義経は京を離れ、そこに頼朝の命を受けた時政が入京し、頼朝の怒りを伝えるとともに“政治交渉”を行い、見事、義経を討ち取るという名目で、後白河院に「惣追捕使・地頭の設置」を認めさせたのです。頼朝が「日本一の大天狗(=くわせもの)」と呼んだ、あの後白河院を丸め込んでしまったわけですね。文治元年(1185年)のことでした。
「惣追捕使・地頭の設置」の実情については諸説あるものの、これが後の「守護・地頭の設置」の前段階となったことは否定できません。「守護・地頭の設置」とは何かを簡単に説明すると、鎌倉殿が朝廷の意向をうかがうことなく、自分たちの意思だけで御家人たちに所領を分け与え、当地の治安を守るよう、命令することができるようになったということです。つまり、「惣追捕使・地頭の設置」は、鎌倉幕府を東国の“独立国”のような立場に押し上げるきっかけとなった重要な転機なのです。
「惣追捕使・地頭の設置」は、朝廷が有していた権力の一部を鎌倉幕府が奪うことを意味していました。それを朝廷に公式に認めさせるというハードな交渉を、時政はたった4カ月でやってのけたのです。驚くべき外交手腕の持ち主であり、現地で吉田経房という有能な協力者を見いだした才能も含め、まさに時政は京都側からは「珍物」としか表現できない前代未聞の存在だったのでしょう。
ただ、時政は鎌倉に戻ると、京都で一瞬見せた“切れ者”としての顔を捨て、存在感をなぜか消してしまいます。伊豆国の領国の整備に注力したからともいわれますが、本当のところはわかりません。とにかく、史料では時政の表立った動きがしばらく見当たらなくなったのです。
それ以降の時政の大きな業績としては、正治2年(1200年)4月1日、「遠江守(とおとうみのかみ)」として国司に任命されたことが挙げられます。源氏、平家などの名門出身者ではなく、一介の地方豪族出の御家人が任命されたのは史上初のことであり、これは鎌倉の御家人たちの上流社会進出への大きな一歩ともなりました。
「武士の鑑」といえば畠山重忠の称号という感じになっていますが、史実における功績を見れば、時政にもその資格が大いにあるのでは、と感じます。しかし、『鎌倉殿』が時政の“切れ者”としての面をほぼ描かなかったのは、ドラマの義時が交渉ごとや実務に強いという設定と被るのを避けたかったからかもしれませんね。
また、史実のデータを見るかぎりでは、知性と剛腕を兼ね備えたリーダーだったはずの時政がなぜ「牧氏事件」で妻の言葉に乗ってしまい、実朝暗殺未遂などの愚かな行いをしてしまったのか、納得のいく説明は見つかりません。だからこそ『鎌倉殿』では時政を「愛され上手の親父さん」として一貫して描く必要があったのではないか、とも考えてしまいます。
頼朝の死以降、毎週のように主要な登場人物が減っていっている『鎌倉殿』ですが、時政がまったく出てこなくなる光景は想像もできません。歴史で定められた運命とはいえ、寂しいものですね。
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