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日刊サイゾー トップ  > 『鎌倉殿』三浦義村の“変わり身”の速さ
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『鎌倉殿』畠山重忠誅殺における北条時政の“迷い”と三浦義村の“変わり身”

北条時政は畠山重忠誅殺を迷っていた?

 しかし、事態はさすがにすぐには動かず、集められた兵はいったん解散されました。『吾妻鏡』によると、この元久2年(1205年)4月の時点で、時政は義時や時房といった息子たちには何の相談もしていません。このことは、ドラマとは異なり、史実の時政と義時らの間に心理的な距離があったことを物語っていると同時に、時政の中でまだ迷いがあったということかもしれません。畠山家の所領を奪い取りたいという欲望と、そうすれば自分の立場がさすがに危うくなるという理性がせめぎ合っていたのではないでしょうか。

 『吾妻鏡』によると、義時は6月に初めて父・時政から畠山討伐の意志を打ち明けられたそうです。しかし、時政は「重忠を謀反の罪で討ち取ろうとしているなら、彼にその意志があったかを聞いてからでも遅くはない」と義時に反論されています。この時、時政は無言で席を立ったそうです。これもまた、娘婿でもある重忠を討つことをためらう気持ちが、依然として時政の中に強くあったことを意味しているのではないでしょうか。

 しかし『吾妻鏡』を詳しく読んでみると、最終的には義時は畠山の謀反の疑惑を否定できなくなり、討伐軍を率いて鎌倉を発ったということになっています。義時の屋敷に、牧の方の兄にあたる大岡時親という人物(ドラマに一時期、登場していた牧宗親と同一人物説もある)が現れ、「畠山重忠の謀反は真実だ」と義時を説き伏せてしまったのだとか……。

 「畠山重忠の乱」の後、義時は父・時政と義母・牧の方を鎌倉から追放し、伊豆に隠居させるという「不孝の罪」を犯しました(その時、大岡時親も出家謹慎しています)。しかし、こうした残念な結果に終わったことについて、『吾妻鏡』は時政側に最大の問題があり、義時の判断を狂わせたのだと主張しているのです。義時の子孫らが権勢を振るった時代に編纂されたとされる『吾妻鏡』らしい見解です。

三浦義村の変わり身の速さ

『鎌倉殿』畠山重忠は時政の怒りを買ってハメられた? 「忠義一徹の男」の悲しい最期の画像2
三浦義村(山本耕史)|ドラマ公式サイトより

 さて、今後のドラマについて読者に注目していただきたいのは、三浦義村(山本耕史さん)の暗躍ぶりです。もともと完全には信頼できない人物でしたが、彼のさらなる恐ろしい部分がハッキリと描かれていくと思います。

 前回・第35回の放送では、義村の的確な重忠評が話題となりました。「次郎(=畠山重忠)を甘く見るな。あれは優男だが、必要なら立場を変える覚悟を持っている。壇ノ浦を覚えてるか。九郎(=源義経)殿の命とはいえ、あいつは誰よりも進んで漕ぎ手を射殺していた。それができる男なんだ。優男だがな」。以前のコラムでも触れた通り、平家方の舟の漕ぎ手を義経が射殺させたという逸話は、『平家物語』『吾妻鏡』の双方に登場せず、20世紀になって司馬遼太郎などの歴史小説で有名になったものですが、それはともかくとして、注目は「必要なら立場を変える」という点です。今度は、この台詞を発した義村自身が「必要なら立場を変える覚悟」を何度も試される立場となっていくはずだからです。

 義村は、義時らと共に「畠山重忠の乱」に参加していますし、それだけでなく、重忠の嫡男・重保も騙し討ちにしました。元久2年6月22日早朝、源実朝による「謀反人の討伐計画」の命が御家人たちに下ります。この時、誰を討つかという情報は明かされておらず、自分の父が標的とは知らない重保は(おそらく訝りながらも)、集合場所の鶴岡八幡宮に少数の家来と共に向かわざるをえなかったのですが、一の鳥居に来たところで義村率いる武士たち一群に包囲され、あっさり殺されてしまったのでした。

 『吾妻鏡』によると、重保の死を知らされるより前に、武蔵国の所領にいた重忠も「謀反人の討伐をするから鎌倉に来るように」という出兵要請を鎌倉から受けており、134騎を率いて向かっていたところ、二俣川(現在の横浜市)で義時の軍と鉢合わせとなったそうですが、重忠はこの時初めて息子・重保が義村に殺されたことを知らされたとされています。

 歴史に「もし」はないとよくいわれますが、この場で「もし」重忠が戦うのではなく、義時軍に恭順の態度を見せていれば、義時は重忠との戦に否定的でしたから、その場で彼が殺される可能性は低かっただろうと思われます。そしてその後の鎌倉での取り調べにおいて「自分は無実の罪を時政になすりつけられた」と理路整然と主張すれば、彼に味方する御家人たちも多く出て、形勢を逆転できていたでしょう。「知将」重忠ならそれくらいの判断はできていたでしょうが、それでも彼が義時軍と交戦せざるをえなくなった理由は、重保を(義時の軍にも加わっている)三浦義村に殺されたことを知ってしまったという一点に尽きると思います。父親として、武士として、重忠は絶対に引き下がることはできなかったのではないでしょうか。

 以上は筆者の想像した人間ドラマではありますが、重忠は少ない手勢と共に四時間ほど奮戦した後、矢で射られて亡くなった……これが「畠山重忠の乱」の悲しい結末です。重忠は享年42歳でした。映像化するにはあまりにヘビーな内容ですが、ドラマではどう描くのでしょうか?

 戦の後、義時は畠山の首を吊るして鎌倉に戻り、父・時政の畠山討伐の命に従ってしまったことを泣きながら悔やみました。そうした義時の姿を見た御家人の間で「執権」時政の評価は暴落することになり、最終的には時政の追放も決定するわけですが、この時、畠山重忠の息子を殺し、重忠本人とも交戦してしまった義村は、どうやって保身できたのでしょうか?

 御家人中で最高の権力者である「執権」時政の畠山討伐の命に、義時以上にすんなりと従ったと思われる義村ですが、義時が時政を追放するという時には、時政をあっさり裏切り、義時に従って見せているのです。誰が一番の強者かを見定め、その人物の味方につくという変わり身の早さが、とりあえずはその場の保身にはつながるものの、三浦義村という人物に稀代の「裏切り者」というイメージを与えてしまっている気がします。ドラマの義村のセリフのように「必要なら立場を変える覚悟」といえばカッコイイですが、まったく信頼できない人物と思われても仕方なかったでしょう。

 もっとも、“裏切りの罪”といえば、義時も結局は同罪かもしれません。親友・重忠に無実の罪を着せ、討ち取らざるをえなかったことに悲嘆して見せた義時ですが、畠山家旧領を、重忠未亡人である自分の妹(実名不明、ドラマでは福田愛依さん演じる「ちえ」)に継がせ、残りの土地も尼御台(北条政子)の決定ということで、重忠を討った者や政子に仕える女房に分配してしまっています。重忠の血を引く子供や縁者は亡くなった重保以外にもいましたが、彼らを探し、相続させたという記録は一切なく、こういうところが北条一族の闇であると思わされてなりません。

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堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/02/21 12:28
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