『鎌倉殿』は北条家の残忍さが発揮される「比企能員の乱」をどう描く?
#鎌倉殿の13人 #佐藤二朗 #大河ドラマ勝手に放送講義
──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『鎌倉殿の13人』次回・第31回「諦めの悪い男」は「比企能員の乱」が取り上げられるようです。となると、諦めの悪い男とは比企能員のことでしょうか。最近、佐藤二朗さん演じる比企能員のインパクトが凄まじいですが、第31回は佐藤さんの渾身の怪演が連発されそうです。能員は『鎌倉殿』にはかなり初期から登場していたはずですが、当初は高い家柄にふさわしい穏やかな人物として演じられていたように記憶しています。権力欲に取り憑かれた能員の変貌ぶりたるや……。
比企家は、平安時代中期に平将門の討伐で名を上げた武将・藤原秀郷の血を引く名族です。『愚管抄』によると能員は阿波国生まれですが、叔母にあたる比企尼の猶子(≒養子)となり、その娘(ドラマでは道)と結婚することにもなりました。比企尼に娘は3人いたものの、男子がおらず、後継者として遠縁の能員が選ばれたのです。能員は能力・人柄ともに比企尼のお眼鏡にかなったのでしょう。
当時の比企家の中心は、まさに比企尼だったと思われます。上流階級の貴人の乳母になることは、女性の出世コースのひとつでした。清少納言が『枕草子』の中で「うらやましげなるもの」として「東宮の御乳母(おんめのと)」、つまり皇太子の乳母を挙げています。乳母は、高貴な方にお乳をさしあげ、幼少時から仕える役割の女性ですが、成長後も若君とは強い絆で結ばれる傾向があります。中には若君の初体験の相手となるだけでなく、その側室になってしまう乳母もいるなど、現代人の目には異様と思えるほどの絆が生じることさえありました。頼朝と比企尼は男女の仲ではなかったようですが、関係は強固でした。
乳母とその家族は、貴人の実母、あるいはその妻以上に強い権力を持つこともよくあり、比企能員は、義母・比企尼が頼朝の乳母で、妻(比企尼の娘)が頼朝の息子・千幡(のちの源実朝)の乳母のひとりでもあるという、鎌倉幕府でも相当に恵まれたポジションにつけていたと思われます。
ドラマでも描かれましたが、元暦2年(1185年)、「壇ノ浦の戦い」で平家が滅ぶと、総大将だった平宗盛は源氏軍に捕らえられ、鎌倉に連行されました。頼朝は宗盛と対面するのですが、ずっと御簾の中にいた頼朝の言葉を宗盛に伝える役割を果たしたのが能員です。これは能力、家格の高さを認められてのことでしょう。建久元年(1190)年、頼朝が久しぶりに上洛し、後白河法皇に対面した際には、頼朝に供奉(ぐぶ)する、つまり側で支える7人のうちの1人としても選ばれています(この時は北条義時もメンバーとして選ばれていましたが)。また、ドラマでは描かれていなかったはずですが、有事の際には総大将として軍を率いることが何度もありました。
ドラマでは、比企家は同じ鎌倉殿の外戚である北条家とほぼ互角に見える形で権力争いを繰り広げているように描かれていますが、史実では北条家よりも比企家のほうが、家格も、御家人としての軍事的実力も明らかに上でした。当時の北条家が動員できる兵の数はわずか50~60人程度だったと見る学者もいます。しかし、比企家のような名門御家人は、その5~6倍にあたる300人の兵をやすやすと動員できる立場にあったそうです(本郷和人『日本史の法則』河出新書)。
こうした点からも、比企家当主の能員からすれば、北条家の面々は明らかに格下的存在、「成り上がり」にすぎなかったのだと思われます。しかし、北条家は策略・謀略の点で能員を大きく勝っていたのでした。北条家の手によって周到に組み立てられた計画の末、比企能員は暗殺され、当主を失った比企家は一気に攻め滅ぼされてしまうことになりましたが、それが建仁3年(1203年)の「比企能員の変」のあらましです。(1/2 P2はこちら)
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