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日刊サイゾー トップ  > 『鎌倉殿』三浦義村の“変わり身”の速さ
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『鎌倉殿』畠山重忠誅殺における北条時政の“迷い”と三浦義村の“変わり身”

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『鎌倉殿』畠山重忠は時政の怒りを買ってハメられた? 「忠義一徹の男」の悲しい最期の画像1
畠山重忠(中川大志)|ドラマ公式サイトより

 『鎌倉殿の13人』の次回・第36回「武士の鑑」では、ついに畠山重忠(中川大志さん)の退場回となりそうです。文武両道の重忠はタイトルそのままに「武士の鑑」として、『吾妻鏡』でも好意的に取り上げられる大人気キャラでした。「悪役」として描かれがちな、梶原景時の真逆の存在だったともいえるでしょう。

 『鎌倉殿』における重忠は「知将」で、求められれば語りますが、普段の言葉数は多くはないキャラクターとして描かれていました。物腰からフレンドリーさは感じられるものの、誰とも無理に距離を詰めようとはせず、感情をあまり表には出さない『鎌倉殿』の重忠という難しい役柄を中川大志さんは好演してきただけに、ドラマからの退場は残念でなりません。

 しかし、第35回の重忠は、これまでにない感情のほとばしりを見せました。北条政範(中川翼さん)の急死の裏に、平賀朝雅(山中崇さん)が毒を盛った疑いがあり、重忠の息子・重保(杉田雷麟さん)が北条義時(小栗旬さん)らに報告したものの、逆に平賀は重保が政範を殺したのだとりく(宮沢りえさん)に吹き込み、北条時政(坂東彌十郎さん)主導で畠山討伐の流れが生まれました。重忠は「こうなったら平賀殿と息子を並べて、ご詮議を」と申し出るも、平賀は京都にさっさと戻ってしまったため不可能だと義時が答えると、それこそ平賀が犯人である証拠だから、すぐに彼を討ち取るべきだと主張します。しかし義時は、それはできないと却下。平賀が「(後鳥羽)上皇様の近臣」であるため、京を敵に回すようなことはしたくないという“正論”です。

 この義時の態度に、重忠は「我ら(=畠山父子)がいわれなき罪で責められてもよいのか!」と普段見せない感情をあらわにし、その憤りを床にぶつけました。重忠が拳を突き立てたところはへこんでしまっていましたが、この演出は、馬を背負いながら断崖絶壁をぴょんぴょんと下りていったとか、巴御前の鎧の一部を引きちぎったとか、『平家物語』などで散見される重忠の超人的な怪力エピソードを思い出させました。

 さて……ドラマでは義時と時政が話し合い、一度は延期されたはずの畠山討伐計画が、平賀朝雅からの讒言を真に受けたりく(史実では牧の方)の熱望によって決行されることになりました。時政は源実朝(柿澤勇人さん)に仔細を伝えず、騙すような形で下文に花押を据えさせ、兵を派遣する資格を得るという描写もありましたが、史実はもう少し複雑な経緯をたどっています。

 時政と牧の方の愛息・政範が京都で急死した翌年、元久2年(1205年)4月、畠山討伐という意図は伏せられていたものの、多くの兵が鎌倉に集められた記録が『吾妻鏡』にはあります。この頃、ドラマと同じように、平賀朝雅が牧の方に「畠山重保に名誉を傷つけられた。許せない」と語り、それを信じた牧の方が時政を巻き込み、畠山討伐が決定したとされており、このことと兵が招集されたことは無関係ではないでしょう。

 もっとも、史実の畠山討伐は欲得ずくの計画だったことがうかがえます。時政・牧の方夫妻は、重保による平賀朝雅の名誉毀損問題というのを建前に、自分たちに大きな利益をもたらすであろう戦を仕掛けることができると考えついたのではないでしょうか。

 ドラマでも以前に描かれたとおり、「比企能員の変」の後、時政は関東支配の重要拠点である武蔵国のトップ「武蔵守(むさしのかみ)」に就任しています。それまで武蔵守を勤めていたのは、源頼朝の遠い親戚にあたる平賀朝雅でしたが、平賀は後鳥羽上皇から京都守護に任命され、当地に栄転することになり、武蔵守の座は彼の義父・北条時政のものになったという経緯があったのです。

 重忠は、武蔵守を支え、その下に控える武蔵国の御家人たちを率いる立場である「武蔵国留守所惣検校」(略称「留守所」)の職にありましたが、新・武蔵守となった時政との関係は、詳細は不明ながら、急速に悪化したとされます。時政は、平賀朝雅時代よりも多くの利益を求め、それが「留守所」の職にあった重忠の収入を圧迫するものだったのかもしれません。

 いずれにせよ時政にとって、重忠は意に添わぬ厄介な存在となり、平賀への侮辱にかこつけて謀殺し、畠山家ゆかりの所領や、「留守所」として重忠が有していた同地の御家人の統率権ごと奪い取ってしまおうという目論見が畠山討伐計画の裏で働いたことは容易に推測できるのです。(1/2 P2はこちら

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