三代目「鎌倉殿」源実朝は繊細なだけじゃない? 兄・頼家同様に気性が荒い一面も…
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兄・頼家のように気性の荒い部分もあった源実朝
『吾妻鏡』によれば、実朝が歌を詠み始めたのは、彼が鎌倉殿に就任した約2年後の元久2年(1205年)4月12日でした。「将軍家(=実朝のこと)、十二首の和歌を詠ましめ給ふ」とあり、この時の実朝は13歳です。その後の実朝は、当時の京都でも指折りの名歌人の藤原定家にも才能を認められ、彼の指導を受けたほどに熱心に歌の道に取り組んでいきますが、定家や後鳥羽上皇たちのように、いわゆる“プロの歌人”として名を上げたいとは考えていなかったのではと思われます。
現代でも、“プロの作家”としてやっていけるかどうかを見極めるポイントとして、書籍一冊分の原稿がすらすらと書き上げられるかが問われる気が(筆者には)するのですが、それと同じように、当時、“プロの歌人”として活動するための関門のひとつが「百首歌(ひゃくしゅうた)」がこなせるかどうかでした。これはその名のとおり、百首の歌を連続で詠み、それでひとつの“世界”を創り上げるという、かなり難易度の高い文学的チャレンジです。しかし、実朝は28歳で亡くなるまで、一度も「百首歌」に挑戦した形跡はないのです。
実朝はその文学趣味ゆえに、よく言えば繊細、悪く言えば気弱だったというイメージが現代に至るまで定着しています。実朝が義時に政治の舵取りの大部分を任せていたことは事実ですし、とある政治的決定をめぐっては政子に頭ごなしに怒られ、タジタジとする姿が『吾妻鏡』にも出てくるのですが、だからといって彼が御しやすい人物であったと考えるのは間違いです。
北条時政と牧の方が鎌倉を追放された「牧氏の変」など、数々の政変が起きた翌年にあたる建永元年(1206年)、当時15歳だった実朝が、重臣・東重胤(とう・しげたね)に対し、まだ空気に緊迫感が残る鎌倉を数カ月ものあいだ留守にしたことで激怒したことがあります。当初は、早く戻ってくるよう和歌を送って優雅に催促していた実朝ですが、それでも戻ってこなかった重胤に怒り、謹慎処分にしてしまいました。このとき両者の間に入ったのが義時で、「宮仕えをしていればそういうこともあるよ」などと重胤を慰めつつ、「和歌を詠んで提出したら、実朝さまの機嫌が直るかもしれない」とアドバイスを与え、実際に重胤はその通りにしたら実朝からあっさり許されたのだとか。
また、建保6年(1218年)、27歳の実朝が朝廷から「正二位(しょうにい)」の位階と「左近衛大将」という官位を授かり、多くのお供を連れて鶴岡八幡宮にお礼と報告を兼ねて参詣した際にも小事件がありました。この儀式のために都から高い身分の人物が何人か招聘されることになり、その中には鎌倉で活動していた大江広元の次男で(かつて分家させた)長井時広という人物が含まれていました。長井は、儀式が終わったので京都に帰りたいと人づてに実朝に伝えたのですが、これが実朝の逆鱗に触れてしまったようで、「それは幕府をバカにした態度のように思われる。一体何を考えているんだ」と激怒したといいます。これを聞いた長井は翌日、泣きながら義時のもとを訪ね、仲介を頼みました。義時が取りなすと実朝の機嫌は即座に直り、長井の帰京は許されたのだとか。
ドラマでも以前、頼家の「気性の荒さ」について触れたセリフがあったように記憶していますが、それと同じような部分が、頼家の弟・実朝の中にも存在していたというのは興味深い話ですね。
実朝は後年、甥の公暁によって暗殺されてしまいますが、その経緯については、またドラマでも描くでしょうから、おいおいお話していきたいと思います。しかしそれにしても、「愚かに用心なくて、文(ぶん)の方ありける実朝は、又大臣の大将(=右大臣で、左近衛大将という高い地位を)汚してけり」……実朝は「武士」というより「文化人」のような立ち位置だったから、愚かにも用心が足りていなかった。そして高い身分の持ち主なのに、甥に暗殺されるなど、面汚しの最後を遂げた……という『愚管抄』の実朝評は少々辛口すぎるような気がする筆者でした。
余談ですが、実朝は強い霊感の持ち主としても知られます。建暦3年(1213年)8月18日の「丑の刻」、彼の屋敷の中庭を走り回る不審な少女の姿(『吾妻鏡』では「青女」)を実朝は目撃し、名前を何度も問うたものの、ついに彼女は無言で外に出ていってしまいました。が、今度は少女の代わりに謎の発光物体が登場したそうです。恐ろしくなった実朝は急いで陰陽師を呼び、現地を検分させたものの、異常は見つからないという回答を受け取ったとされます。現在から800年ほど昔に生きた源実朝の情報がここまで残っているのは奇跡的ですが、彼が実に多面的な人物であったことがここからもうかがえる気がします。
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