小室哲哉とR&B〈2〉「R&Bプロデューサー」としてのTKサウンドの頂点とは
#小室哲哉 #TOMC
ビート&アンビエント・プロデューサー/プレイリスターのTOMCさんが音楽家ならではの観点から、アーティストの知られざる魅力を読み解き、名作を深堀りしていく本連載〈ALT View〉。前回に引き続き、小室哲哉のR&Bサイドに迫る特集の第2回をお届けします。
J-POPとしての“ブラック・ミュージック”の完成形を提示
小室哲哉は1996年、“日本でR&Bが聴かれる土壌”を一気に築いていった。その前年から小室プロデュース下で活動を行なっていたレゲエ・ヒップホップ・ユニット、H.A.N.D.の元メンバーであるnisi-pは、2017年に興味深いエピソードを語っている。曰く、小室はH.A.N.D.の活動初期に「まだ日本ではブラック・ミュージックが一般的に浸透していないから、J-POPとして普通に聴ける土壌を作る。それまで本格的な売り出しを待っていてくれ」という話をしたというのだ。
1996年の小室プロデュース作品を見てみると、3月に安室奈美恵がR&B色を強めた「Don’t wanna cry」をリリースし、そのおよそ1週間後に“日本版TLC”を目指したdosがデビュー。8月には小室の旗艦ユニットであるglobeも、BPM(テンポ)をグッと落としたメロウな「Is this love」を発表している。小室は自らの言葉通り、日本のポップス・シーンに彼流のR&Bサウンドを相次いで投入していったのだ。
もちろん日本のメジャー流通作品でソウル/R&B色を押し出した楽曲は1980年代中期以降に多数見受けられ、小室が初めて試みたわけではない。この小室特集の第1回でも挙げた、TM NETWORKと同時期にソウル/ファンク/R&Bを取り入れた音楽家たち(久保田利伸、大沢誉志幸、鈴木雅之、小比類巻かほる)は勿論のこと、90年代に入ると、バブルガム・ブラザーズ「WON’T BE LONG」(‘90)、ZOO「Choo Choo TRAIN」(‘91)、中西圭三「Woman」(‘92)、横山輝一「Lovin’ You」(‘93)など、R&B~ニュー・ジャック・スウィング色の強い楽曲が次々にヒットを記録。さらに、1990年代前半を席巻した“ビーイング系”アーティストの多く(B’z、WANDS、DEEN、大黒摩季など)もポップ/ロック調の楽曲と並行して、R&B寄りの楽曲を多数発表している。
ヒップホップ・ソウルを広めた、和製「R&Bプロデューサー」のパイオニア
では、小室が普及させたがっていた“ブラック・ミュージック”とは具体的にどのようなものだったのか。それは当時“ヒップホップ・ソウル”と称されたタイプの音楽であったと思われる。90年代前半にメアリー・J.ブライジやジョデシィ、R.ケリーなどが定着させたこのサブジャンルは、ヒップホップ的なサウンド・プロダクションや比較的ゆったりとしたテンポ感のビート(ブーンバップ・ビート)にソウル的な歌唱を乗せたもので、当時一世を風靡していた。後年、宇多田ヒカル『First Love』(‘99)収録曲の多くにヒップホップ・ソウル的なアレンジが施されていたこともあり、ある種、日本人の多くが「R&B」という言葉からイメージするサウンドの典型であるとも言えよう。そして、特にこのジャンルを意識したと思われるdosのデビューシングル「Baby baby baby」(‘96)のタイトルは、明らかにTLCの92年のヒット「Baby-Baby-Baby」を念頭に置いたものだ。
また、安室奈美恵の1stアルバム『SWEET 19 BLUES』(‘96)には数秒~1分台の短いインタールード的なトラックが多数収録されているが、これはジャネット・ジャクソンが『Rhythm Nation 1814』(‘89)や『Janet』(‘93)で用いた手法を意識したものだろう。安室はダンスと歌唱を両立させる活動を志したきっかけとして、これまで幾度となくジャネットへのリスペクトを表明しており、前述の「Don’t wanna cry」も、安室の「ミディアムテンポでブラックミュージックを歌ってみたい」という意向を汲んで制作されたものだと言われている。
このアルバムの構成は、安室が最初期のユーロビート路線からの方向転換を完了し、“日本のR&B界の女王”として音楽ファンに強く(かつ分かりやすく)印象づける意味でも、非常に効果的だったと思われる。その後の安室は、TLCやモニカなどを手掛けたダラス・オースティンのプロデュースによる「SOMETHING ‘BOUT THE KISS」(‘99)や、シーラ・E(元プリンス・ファミリー)やリン・メイブリー(元Pファンク・ファミリー)が作詞・作曲・編曲で参加した「LOVE 2000」(‘00)など、多様なR&Bの表現を追求。小室プロデュースを離れた2001年以降、この方向性を一層深化させていったのは多くの音楽ファンがご存知のことだろう。
なお、ジャネット・ジャクソンは、アルバムによってニュー・ジャック・スウィングやヒップホップ・ソウル、後年にはネオ・ソウルも取り入れるなど、サウンドを時流や表現の幅に応じて適宜アップデートを行なっていたが、そうした彼女のキャリアを振り返る上で欠かせないのがプロデューサー・ユニットであるジャム&ルイスの存在だ。トラックメイキングと作曲の両方を手がけ、その仕事内容に強い記名性があり、ロックなど他ジャンルとの融合にも意欲的で、ロッド・スチュワートなど世代を超えた音楽家にも手腕を買われ、なおかつ数多くのアーティストを成功に導いたことで“ヒット請負人”のように目されていった――そうした彼らの特徴の多くは、当時の小室にも当てはまるだろう。
今でこそ「小室プロデュース」といえば、TRF(当時・trf)の「survival dAnce ~no no cry more~」(‘94)やglobe「Feel Like dance」(‘95)に代表されるアップテンポ/ハイテンポな楽曲がイメージされることが多いかもしれないが、彼には「R&Bプロデューサー」としてのキャリアも間違いなく存在していたのだ。そして、そうした彼の歩みは1998年以降、一層加速していくことになる。
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