渋沢栄一と岩崎弥太郎の対立――「料亭事件」の真相と、五代友厚の“仲介”
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料亭事件は海運業をめぐっての口論がきっかけ?
料亭事件が起きたのは、『父 渋沢栄一』によると「明治11(1878年)年8月」。また、渋沢本人の回想(『処世の大道』)によると、岩崎との関係が悪化したのは「明治12、3年(1879年~1880年)」ごろ。先述の東京風帆船会社の一件のとおり、岩崎側がモラルもマナーもあったものではない悪辣な態度を貫くようになったのですが、料亭で両者が話し合おうとしていたのは、「理想の日本経済のあり方」といったテーマではなかったのかもしれません。
渋沢サイドの主張によれば、「渋沢さんと私(=岩崎)が手を結べば、日本の実業界を牛耳ることができる」などと持ちかけられたが、渋沢はビジョンの相違を理由に岩崎の提案を断ってしまった……とのことですが、これについて岩崎側は何の言及もしていません。渋沢側だけが「そういうことだった」とさかんに吹聴している「だけ」なのですね。
料亭事件が起きたとされる明治11年は、三菱商会に海運業でリベンジをしかけたい渋沢が東京風帆船会社の設立準備をすでに進めていた頃だと思われます。そして、その情報は岩崎にも伝わっていたのだと考えられます(東京風帆船会社の社号は諸説あるが、明治13年ごろには成立)。
渋沢は岩崎に対し「今度こそは負けてたまるか」と好戦的でしたが、おそらくは岩崎はそんな渋沢の気持ちを理解した上で、「才能のある君と、商売でまたぶつかるようなことはしたくない」などと持ちかけ、三菱側に渋沢(たち)を迎え入れる……悪くいえば、会社ができる前に吸収合併してしまおうとしたのではないでしょうか。それを渋沢なりにまとめたのが、「二人で商いをすれば日本のビジネスを握れるなどと岩崎から持ちかけられた」という逸話なのだろう、と筆者には思えてしまうのです。そして、この岩崎の提案が「私が再び失敗するとでも言いたいのか」と勝ち気な渋沢の気に障り、岩崎も「どうせ私に負けて恥をかく、その前に良い条件を持ちかけてやっているというのに」と腹を立て、互いに「あなたは間違っている!」と罵り合って決裂した……というのが、筆者の考える料亭事件の真相です。
岩崎との対立で大隈=政府との関係が悪化した渋沢に差し伸べられた手
いずれにせよ、海運業の王座は誰にも渡さない!という岩崎の“本気”を見せられた結果、渋沢の東京風帆船会社は三菱との競争に敗れてしまいました。
岩崎はビジネスにおいて、社長=優れた専制君主であるべきという思想を持っていました。組織が巨大化しても社長の独断だけでスピーディに事業を動かすことができるためです。一方、渋沢が理想とした合本主義の会社は、権利者がたくさんいるわけで、社としての動きも鈍くなりがちです。これは、時として素早い決断が迫られる海運業というビジネスには不利でした。とりわけ、利に聡い岩崎のようなビジネスの巨人をライバルにした場合は……。
また、岩崎は日本政府の台湾出兵に協力した時から政府の中心人物・大隈重信と懇意でしたので、岩崎との対立は、渋沢と大隈、ひいては政府との関係悪化ということでもあります。こうして各方面と関係をこじらせてしまった渋沢をとりなしてくれたのが、五代友厚でした。
『父 渋沢栄一』では「物語風に書かれた興味本位の記事」と評されてはいますが、渡井新之助編『近事奇談内幕話』という資料によると、五代は、大隈と渋沢の間を取り持つために、二度も大阪から東京にやってきて尽力したと記されています。五代のとりなしがなければ、東京風帆船会社どころか、栄一の「第一銀行」まで潰れそうになっていたのですが、五代のおかげで銀行は閉店にいたらず、東京風帆船会社は他の運輸会社と合併して「共同運輸」として再スタートすることができるようになりました。
共同運輸と三菱商会はその後もいがみ合いますが、トラブルの最中に岩崎は胃の痛みを訴え、倒れてしまいます。末期の胃がんでした。大名華族の柳沢家から購入した東京・駒込の「六義園(りくぎえん)」で療養生活を送る岩崎ですが、明治18年(1885)2月7日、50歳(満年齢)の若さで亡くなってしまっています。
岩崎の葬儀は豪華極まりないものでした。経費だけでも当時のお金で1万円、現代の貨幣価値で1億円ほどかかったとされます。つまり明治期の1円=現代の1万円と考えるのが一般的なのですが、当時の社会状況から、岩崎の葬儀代1万円は現代では10億円以上の価値があったとする学者もいます。「死してなお、自分の葬儀で岩崎弥太郎は経済を動かした」と讃えられたのも頷けます。
岩崎の葬儀には渋沢も参列したそうです。こういうところは、いくら対立していたとはいえ、義理堅いものですね。
死の床の岩崎は、後継者を長男・久彌にすると発表しましたが、この時、彼は20歳でまだ学生だったため、三菱商会のビジネスを引き継いだのは、弥太郎の弟・弥之助でした。この後、史実では井上馨が仲裁に入って共同運輸と三菱商会の合併を熱心に提案します。三菱に痛い目に遭わされてきた共同運輸側の抵抗は多少あったものの、両社は最終的に和解し、「日本郵船」として奇跡の合体を遂げ、船出することになったのです。同年10月1日のことでした。
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