樋口一葉も没落士族…渋沢栄一が「国利民福」訴えた背景に明治期の“貧富の差”
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渋沢が国利民福を目指した背景にある明治期の貧困問題
前回のドラマでは、渋沢が岩崎弥太郎(中村芝翫さん)から料亭に招待され、初対面するシーンもありました。「多くの民から金を集めて大きな流れを作り、得た利でまた多くの民に返し、多くを潤す。日本でもこの制度を大いに広めねば」「事業は国利民福を目指すべき」と自身の信条を披露する渋沢ですが、「欲は罪やない。欲のあるき人間が前進する」「経済には勝つもんと負けるもんがある」「才覚あるもんが強うあってこそ国利」と熱弁する岩崎に若干、押され気味ではありましたね。
岩崎の能力主義・自己責任論的な主張はもっともなのですが、貧富の格差が大きすぎる社会は結果的に停滞しか生みませんし、社会不安が高まる可能性があります。渋沢の言葉に一理あるように筆者などは思うのですが……。
実際、明治初期以降、東京には地方から多くの農民が流れ込み、貧しい人々が固まって住む「貧民窟(=スラム)」が急増する問題が報告されるようになりました。その周辺の治安が悪化したのですね。江戸期にもスラムは存在していましたが、庶民に移動の自由が制限されていたこともあり、明治期ほど巨大化し、問題視されることはありませんでした。
明治期の貧民街の特徴は、便利な地域に固まっていった点にあります。明治40年代になると、都内の貧民窟の83.5%が下谷、浅草、本所、深川の4地区に集中する有様となりました。貧者は移動手段が限られているので、便利なところに固まって住む傾向があるのです。
こうして貧民窟の発祥地になってしまったこれらの4地区は、当時の産業、商業、観光業などの中心地でもあり、そうしたエリアの治安悪化は、東京市としては頭の痛い話となりました。行政が貧困問題解消に消極的すぎたツケなのですが……。
明治時代の日本には、岩崎弥太郎のように一気に成り上がっていく者もいれば、平岡円四郎未亡人の「やす」(木村佳乃さん)が語っていたように、明治維新によって没落した旧・武士層に加え、明治になってからの経済競争で振り落とされた層などが大量に巷にあふれてしまっていました。
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