『どうする家康』晩年は若者にケチをつける老害? 「健康マニア」家康の死因とは
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自己診断にこだわった家康に忠告した医師は流罪に
このように最新のファッションには冷淡な態度の家康でしたが、中年以降の彼は自力でふんどしすら着用できないほどに肥満してしまった食いしん坊なので、食べ物の流行チェックには余念がなかったようです。家康の死因として「鯛の天ぷらを食べすぎた」または「鯛の天ぷらにあたった」という逸話が有名ですが、信頼できる史料によると、家康が口にしたメニューは「鯛の天ぷら」という言葉から想像するよりももっと豪華な代物でした。
元和2年(1616)1月21日、駿河田中(現在の静岡県藤枝市)で鷹狩りを楽しむ家康のもとに、京都で呉服商を営む茶屋四郎次郎(三代目)が訪ねてきました。家康は、この三代目四郎次郎がお気に入りで、田中城で親しく語り合う時間を持ちました。若い男の服装や髪型が気に入らないのは、(現代でもよくあるように)自分にとって一番よかった時代で服装や髪型などの趣味が固定化される現象に近いのではないかと筆者は見ていますが、それ以外においては家康は大の「新しいもの好き」でした。好奇心旺盛な家康は「近頃上方にては、何ぞ珍らしき事はなきか」――最近、関西で流行中の珍しいものはないか?と四郎次郎にわざわざ聞いているのです。
すると四郎次郎は、「鯛をかやの油(榧油)にて揚げ、そが上に薤(にら)すりかけ」た食べ物が美味く、上方で人気だと教えました。ちょうど榊原晴久という人物からよい鯛が届けられたところだったこともあり、家康はそれを作らせ、さっそく賞味したといいます(『東照宮御実記』)。当時、素材に水溶きの小麦粉を付けて揚げる天ぷらの調理法はすでに確立していたようです。家康が質素倹約を重んじたという逸話は多いものの、榧油は現在でも生産量が限定され、非常に高価な油だったことが知られています。そんな希少な高級品をすぐに使うことができたのは常備させていたからでしょう。家康の食生活は想像される以上にリッチだったようです。「鯛の天ぷら」には別レシピもあって、「鯛を胡麻油で揚げたものに、にんにくを擦ってかける(『元和年録』)」ともあります。
しかし、美味だったぶん、普段以上に食が進んでしまったのが災いしたのでしょうか。翌22日の午前2時頃、家康は強烈な腹痛に襲われたそうです。ドラマでもたびたび出てきましたが、家康は自分で薬を調合するほどの健康マニアで、この時も万病丹30粒、銀液丹10粒を飲んで、腹痛をなんとか治めたといいます。万病丹は、サナダムシなどの虫下しに使われる薬で、銀液丹は水銀とヒ素を主原料とする猛毒です。当時の感覚としては、寄生虫が先に死ぬか、宿主の人間が死ぬか……という意気込みで服用したのかもしれませんが、恐ろしい毒物を薬だと思って常用していたようですね。少なくとも鯛の天ぷらが直接の原因となって死んだわけではないのです。
25日にはなんとか駿府城に戻ることができた家康ですが、腹痛は治まらず、2カ月後の3月下旬には固形物が食べられなくなるほど悪化してしまいました。家康は末期がんだと思われる内臓病で、腹部にしこりが確認されるほどでしたが、しかし健康マニアの家康は、医師から何を言われても「これはサナダムシのせいだ」という自己判断に固執します。そしてやはり虫下しの薬である万病丹を服用するのですが、医師・片山宗哲が「サナダムシの薬など効かない」つまり「あなたは死病だが、少しでも長く生きたいなら(毒なので)体に害のある虫下しなどやめて、体力を温存すべき」と診断したことに激怒し、信州への流罪にしてしまいました(『寛政重修諸家譜』)。
家康は「死にたくない」「完治させて長生きしたい」という欲望に死の直前まで振り回されていたわけですが、その家康に対して、一介の医師にすぎない片山宗哲が「あえて物申す」という態度を貫けたのは、彼の背後に秀忠がいたからです。秀忠は老父・家康を心配していましたが、家康に楯突く勇気がないため、片山という医師を利用したともいえます。しかし、その片山が流罪にさせられてしまったことに秀忠は驚いたでしょうね(なお、片山宗哲は家康の死後、秀忠によって呼び戻されて復帰しています)。この事件からは、家康は晩年に近づくほど、周囲を振り回し続ける「老害」的存在になっていったことが読み取れます。
家康はそのまま回復することなく、4月17日に息を引き取りました。家康の遺言については、秀忠など近親者に口頭ではあったかもしれませんが、「子孫の誰それにこういう言葉を残した」という具体的な史料は見当たらず、少なくとも現存はしていないようです。「家康の遺言」として一部に有名な「人の一生は重荷を負ひて遠き道をゆくが如し」で始まる『東照公御遺訓』も、本当に家康の言葉なのか、諸説ある状態です。家康が死ぬ間際まで上述のような状態だったことを考えると、完全創作の可能性は決して低くはないでしょう。『東照公御遺訓』の原文は家康を祀る日光東照宮に保管されているようですが、これはおそらく、死後に名実ともに神格化が進んだ家康に「それらしい」遺言がないことを惜しんだ水戸藩の徳川光圀(いわゆる水戸黄門)による創作ではないかとの説が濃厚なのです。
『どうする家康』は、のちの春日局である福(語りを務めた寺島しのぶさん)が「神の君」である家康の生涯を竹千代(のちの家光)に語り聞かせているという構造のようなので、晩年の「老害」ぶりはとても見られそうにありませんが、家康の最期をどのように描き、ドラマを締めくくるのでしょうか。最後まで見守りましょう。
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