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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

阿茶局と『どうする家康』に登場しないお梶の方――家康が信頼した2人の側室

大坂冬の陣で茶々の妹を手玉に取った阿茶局

阿茶局と『どうする家康』に登場しないお梶の方――家康が信頼した2人の側室の画像2
家康(松本潤)と阿茶局(松本若菜)| ドラマ公式サイトより

 豊臣家側の交渉担当者には茶々の妹にあたる常高院(お初)が起用されたのですが、阿茶局は常高院をすっかり手玉に取ってしまい、和睦の条件として、豊臣家が抱えていた浪人(牢人)たちを召し放ってしまうこと、そして、豊臣・徳川の双方が協力して大坂城の堀を埋め立てることなどを約束させることに成功しました。常高院としては、堀を埋めさせられた代わりに「秀頼公の地位は変わらず、徳川家が強く主張してきた、茶々さまに江戸で人質になれという要求もなくなった。よかった、よかった」程度のおめでたい認識で了承したのでしょうが、阿茶局は「そうした問題は一旦、横に置いておくだけ」という冷徹な考えだったようです。

 家康の死後も、阿茶局は徳川家に仕え続けました。家康の遺言によって「自分の死後も阿茶局が尼になることは許さない」とされていたため、彼女はきわめて長い現役時代を過ごすことになりました。元和6年(1620年)、秀忠の五女の和子が後水尾天皇に入内(結婚)する際には、母親代わりとしてともに京都に赴いています。彼女がようやく髪をおろし、多忙な現役生活からリタイアできたのは、秀忠の死後の寛永9年(1632年)で、79歳のときでした。亡くなったのは84歳で、当時の平均寿命の2倍以上にわたる、長く、有意義な生涯でした。『どうする家康』では、「語り」担当の寺島しのぶさんが三代将軍・家光の乳母である福(のちの春日局)として出演することが発表されましたから、ひょっとすると家康亡き後の阿茶局についてもドラマで多少は触れられるかもしれませんね。

 阿茶局を寵愛した家康ですが、晩年の家康のそばには、ドラマには未登場ながら阿茶局に負けない存在感を発揮した側室たちがほかにも多くいます。

 ドラマ第45回でも描かれた家康と秀頼の二条城会見ですが、史実においては、家康の2人の息子――義直(九男、のちに尾張藩初代藩主)と紀伊の頼宣(十男、のちに紀州藩初代藩主)が京都・鳥羽まで秀頼を出迎え、その後は二条城まで案内し、父・家康に引き合わせるという重要な役割を果たしました。つまり二条城会見は、家康と秀頼の初顔合わせであるだけでなく、豊臣と徳川両家の「次世代スター」たちを世間にお披露目する機会でもあったのですね。

 ドラマでは義直と頼宣の出番がなかったのと同様に彼らの母親も登場しなかったわけですが、義直の母はお亀の方という女性で、文禄3年(1594年)、数え年で22歳の時に家康に見初められ、側室となっています。また、頼宣の母はお万の方(養珠院。家康の若き日の側室・於万の方=長勝院とは同名の別人)で、文禄2年、彼女が17歳(あるいは14歳)だった時、家康の側室になったとされています。当時、家康はすでに50代でしたから、どちらの女性ともかなりの「年の差婚」であったことに驚く読者もいるかもしれません。

 かつての家康は「後家好み」、つまり、阿茶局のように先夫とは離別あるいは死別した、出産経験のある「熟女」を好んだそうですが、家康が49歳の時に側室に迎えた13歳のお梶の方――当時はお八(はち)という名だったとも――以降は「美少女好み」に転化したといわれます。つまり、お梶の方との愛の日々が、家康の女性の趣味を180度転換させたともいえるかもしれません。家康はその後も、先述のお亀、お万に加え、17歳のお夏(お奈津)、15歳のお梅など、十代のかなり年若い女性ばかりを次々に側室にしたことが知られています。これはあくまで女性たちが家康のそばに仕えるようになった年齢であって、側室になった年齢とは言えないという説もありますが、いずれにせよ相当な年の差です。

 「好みの変化」でいえば、「後家好み」の時代は女性の出自に関心が低かった家康は、秀吉の命で江戸に移封された(天正18年/1590年)のちは、「令嬢好み」だった秀吉の影響でしょうか、関東の名族出身の女性をコレクションするかのように身辺に配置するようになりました。その1人が先述のお梶であり、一説に江戸城代であった遠山家出身だそうです(太田道灌の子孫説もあり)。また、お梶の方は単なる令嬢ではなく、勇敢で頭脳派だったので、家康はかつての阿茶局のようにお梶を関ヶ原にも同行させたそうです。そして大勝利を記念し、お梶からお勝に改名するように命じた……というエピソードもあります(本稿では「お梶」のまま記述します)。

 このようにお梶への寵愛は非常に強かったのですが、家康との間に生まれたのは五女・市姫だけで、その市姫も4歳で夭折してしまいました。不憫に思った家康はお梶に、当時8歳だった頼房(十一男=末男、のちの水戸藩初代藩主)など3人の子どもたちの養母となれるよう取り計らっています。頼房の母親は先述のお万の方(養珠院)ですが、彼女は日蓮宗を熱心に信仰するあまり家康との関係が悪化していたといいます。しかしそれにしても、家康から自分よりも愛されている女のワガママで大切な息子のひとりが奪われてしまうというのは、お万の方からすれば無念だったことでしょう。もっとも、お梶は家康から「男だったら大名にでも取り立てていた」と言われるほど政治的才覚のある女性でしたし、基本的にドケチで人を信じない家康から駿府城の金庫番を任されていたとされるほどの信頼を得ていたので、家康から「これはお梶の願いでもある」などといわれたら、お万の方には抵抗などできなかったでしょうね。

 お梶を寵愛していた家康ですが、68歳のとき、今度はお梶の部屋子(=私的に雇用している召使い)だった13歳のお六という女性を側室にしています。お六はたいへんな美少女で、世間からは「佐渡殿、雁殿、お六殿」と晩年の家康の「3大好きなもの」に入るという認識を持たれていました(ちなみに佐渡殿とは本多正信、雁殿とは家康が大好きだった鷹狩の獲物のこと)。ひょっとするとお梶は、晩年になるほどますます若く美しい女性を好むようになった家康の気持ちを汲んでお六をスカウトし、「お手付き」にできるよう身辺に置いていたのかもしれません。家康死後、お梶の方は髪をおろして英勝院と名乗り、寛永19年(1642年)に65歳で没しました。

 晩年の家康にとって、年齢を重ねた阿茶局は、側室の身分ではありながら、性別を超えた頼れる仲間。そしてお梶の方は、愛する女性でありながら頼れる参謀でもあるという、若かりし頃の阿茶局の立場に相応する存在だった気がします。類似点のあるキャラクターだけに、お梶の方を登場させると阿茶局の存在が霞んでしまうという事情もあったでしょうが、『どうする家康』でもお梶の方を見てみたかったものですね。

<過去記事はコチラ>

堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/12/03 11:00
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