阿茶局と『どうする家康』に登場しないお梶の方――家康が信頼した2人の側室
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『どうする家康』第45回のタイトル「二人のプリンス」とは、家康(松本潤さん)が「涼やかで様子のいい秀吉」であると評した秀頼(作間龍斗さん)と、父・家康の死後どうなるかを不安がる「偉大なる凡庸」秀忠(森崎ウィンさん)の2人を指すだけでなく、再会した家康と今川氏真(溝端淳平さん)のことも指していたようですね。剃髪して再登場した氏真は老けメイクによってすぐには誰かわからないほどの変わりようで驚かされましたが、「戦はなくならん。わしの生涯はずっと……死ぬまで……死ぬまで、死ぬまで戦をし続けて」と絶望して涙を流す家康を氏真は抱きしめ、「弱音を吐きたい時はこの兄が全て聞いてやる。そのために来た。お主に助けられた命もあることを忘れるな」と励ましていました。旧臣が相次いで亡くなり、部下や家族からも頼られるばかりの立場になった晩年の家康が唯一の本音を吐き出せる相手は氏真だった……という描き方はとてもよかったですね。
一方で史実の家康は、晩年になっても、信頼できる女性にはうまく甘えられるタイプだったのではないか……と筆者は見ています。今回は、晩年の家康からもっとも信頼を得ていた側室の1人である阿茶局を中心に、ドラマには登場していない側室たちについてもお話ししたいと思います。
これまでに『どうする家康』に登場した家康の側室といえば、次女・督姫をもうけながらも本当は同性愛者だったという理由で男女の関係ではなくなったお葉(西郡局)、そして瀬名(築山殿)の元・侍女で、家康には実家の神社復興のためのカネ目的で接近したお万(於万の方)、気のいいしっかり者で、秀忠の生母となったお愛の方(西郷局)、そして現在そばに仕える阿茶局だけでしょうか。ドラマの登場人物一覧に名前がある側室は上記の4名だけですし、最後のキャスト発表も初(茶々の妹)と福(春日局)の2人だけだったので、これ以上は家康の側室に言及されるようには思えません。つまり本作において、15人とも20人ともいたとされる側室と家康の関係は、ほとんど描かれていないのです。ドラマには出てこなさそうな家康晩年の個性的な側室たちについては本稿の最後に触れるとして、まずは松本若菜さんが演じている阿茶局からお話していきましょう。
阿茶局は、『東照宮御実紀』に「神祖(=家康)の御かたはら近く宮仕し、阿茶の局といふ。女にめづらしき才略ありて(略)おほかた御陣中にも召具せられ」とあるように、当時の女性にしては珍しいほどの才覚に富んでおり、家康は戦場にまで随行させていたそうです。劇中では、関ヶ原の戦い以前の阿茶局は打ち掛けの中に袴をはいていたりと御小姓の少年を彷彿とさせるような格好だったと記憶していますが、これは「阿茶局は戦場に随行する際、男装して臨んだ」というエピソードを膨らませた衣装だったのでしょうか。また、ドラマでは秀忠との関係はほとんど描かれていませんが、西郷局(於愛)が天正17年(1589年)に早逝した後、彼女の遺児である幼い秀忠たちの養母となったのは阿茶局でした。
ドラマでの阿茶局の登場は、於愛の方が亡くなった第36回「於愛日記」の後の第37回からでしたが、史料で見る限り、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いの頃にはすでに出会っていた説(『鈴木氏系図』)、あるいは家康が武田家と激突していた頃の天正10年(1582年)に出会ったとする説などもあり、詳細は不明ながら、家康とは古くからの顔なじみだったのかもしれません。その彼女が実際に家康の側室となったのは天正7年(1579年)とされています。阿茶局はもともと神尾忠重(かんお・ただしげ)という男に嫁いでおり、天正5年に夫が亡くなった後、家康に召し抱えられたという経緯のようです。つまり、西郷局が秀忠を産んだ頃には阿茶局は家康の側室になっていたわけですね。
家康の阿茶局への信頼と寵愛は当時から際立っていました。阿茶局は天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも家康とともに出陣したそうですが、そのせいで妊娠中の彼女は家康の子を流産してしまいます。その後、不幸にして阿茶局が再び身ごもることはなかったのですが、先述のとおり、西郷局の2人の遺児(秀忠とドラマには未登場の忠吉)の養母となりました。
ドラマでは、阿茶局の登場時に「才覚に秀で、政(まつりごと)も手助けする」とナレーションが解説していましたが、彼女の政治的才覚がもっとも生かされたのが、大坂冬の陣における和睦交渉です。いくら家康が、才能を見込んだ女性に頼る傾向が強い武将であったとしても、和睦交渉のいわば「全権大使」に女性を抜擢したのは異例中の異例でした。その背景には、大坂城の実力者が秀頼生母の茶々という女性だったことに加え、茶々との間に行われた第一次交渉において本多正純(正信の嫡男)が話を決裂させてしまった問題があり、家康が「それならば」と起用したのが阿茶局だったのです。(1/2 P2はこちら)
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