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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 実際の豊臣秀頼は力士のような巨漢?
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』早熟で聡明な豊臣秀頼 史実ではヨコにもでかい巨漢だった?

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』早熟で聡明な豊臣秀頼 史実ではヨコにもでかい巨漢だった?の画像1
茶々(北川景子)と豊臣秀頼(作間龍斗)| ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』第44回は、茶々(北川景子さん)が愛息・秀頼の背丈を毎年正月に刻むと話していた大坂城の柱が、全編を通じて効果的に使われていましたね。年ごとにガリッ、ガリッと柱が削られる音とともにぐんぐん伸びていく秀頼の背丈に「怪物の成長を現しているかのようだ」との声もありました。また、その中で榊原康政(杉野遥亮さん)と本多忠勝(山田裕貴さん)の死が告げられたので、高齢化の進んだ「チーム徳川」と、19歳になったばかりという秀頼の若さが対照的に感じられる演出でもありました。

 番組終盤、慶長16年(1611年)の正月には、恒例の身長測定を終え、茶々が「どこからどう見ても見事なる天下人であることよ!」と喜色満面で宣言、御簾の向こうからHiHi Jetsの作間龍斗さん演じる秀頼が「さあ……宴の時じゃ」と初登場した瞬間には、かなりテンションが上がってしまいました。作間さんは180センチの高身長だそうで、『どうする家康』の秀頼も、背丈に関しては当時の史料を反映した内容になりそうです。

 しかし、一次資料で語られる秀頼はさらにインパクトの強い外見をしていました。ドラマの秀頼とは異なり、史実の秀頼はとにかくタテにもヨコにもデカかったようなのです。見目麗しかったという説もありますが、『明良洪範』という史料には「御丈六尺五寸」……身長195センチとあり、『長沢聞書』によると「世になき御ふとり也」、つまり「めったに見ないほどの巨漢」だったとされています。しかも日本人だけでなく、たとえばスペイン人商人のヴィスカーノも、慶長17年(1612年)に大坂城で秀頼に謁見した際の印象を「非常に肥えふとり、自由に身を動かせないほどである」と証言しているので、秀頼は誰の目からも「デカすぎる男性」だったようです。

 それも、単なる肥満ではなく、今でいえば力士とかヘビー級のプロレスラーみたいな体型だったのではないかと思われます。当時の日本に滞在中のオランダ東インド会社の社員が長崎・平戸の商館長に宛てた手紙が最近発見されており、その中で秀頼の怪力ぶりが語られているのです。それによると「秀頼の数人の大名が、赦免が得られると考え、皇帝(=徳川家康)側に寝返るために城に火を付けたが、彼らは逃げる前に秀頼によって、その場で落とされて死んだ」そうです。

 もちろん、この「落とされて死んだ」を、「秀頼が裏切り者の首根っこを掴み、城から放り投げて殺した」と考えるか、「突き落として殺した」と解釈するかでかなり印象が異なりますし、『東照宮御実記』などの日本側の信頼できる史料には秀頼自ら誰かを粛清したとするこの逸話についての情報が見当たらないため、この東インド会社社員の報告書の信頼性に問題があると見る人もいます。しかし、筆者にとって重要だと思われるのは、いざとなれば怪力を発揮し、人を突き落として(もしくは投げ落として)殺すことができるだけの潜在的なパワーが感じられるような体型だったからこそ、この手の「噂」が出たのではないかという点です。当時、紙やインクといった筆記用具は貴重品ですし、大坂から平戸まで手紙を送ることもかなり高くつきました。現代人の我々のように気軽にメッセージの往復ができなかった17世紀初頭の状況を考えると、わざわざそのような逸話を綴ったということはよほど印象的だったのでしょうし、当時の秀頼について底知れぬ力を秘めた「モンスター」であるという認識が存在していたのだと思われるのです。

 身体の大きさ、たくましさにも象徴されるように、秀頼は性的にも早熟でした。千姫が16歳で男子の元服に相当する儀式を終えるまで――つまり彼女が寝所で妻としての役割がこなせるようになるまでの間に、千姫より4歳年上だった秀頼は2人の側室との間に男女2人の子どもを授かっています。

 もっとも秀頼は、千姫が“元服”を終え、名実ともに自分の妻になると、側室たちを遠ざけ、千姫を大切にしました。当時の女性の“元服”では、前髪の一部を切り揃える「鬢削ぎ(びんそぎ)」の儀式が行われましたが、千姫の髪を切ってやったのが秀頼でした。光源氏と紫の上を彷彿とさせるような、仲睦まじい夫婦であったようです。秀頼が複数の側室と子どもを持ったのを見ても、千姫が焦ったという記録はなく、それはつまり7歳で大坂城に嫁いだ千姫が秀頼からの愛情を確信していた……ということなのかもしれません。

 秀頼が早熟の巨漢で、生殖能力が高いことなどは、すべて亡父・秀吉とは正反対なので、茶々が大野治長などの子をこっそり宿したのが秀頼だとする伝説が生まれるのも仕方ないことかもしれません。しかし、秀頼生母の茶々自身、父方から受け継いだ浅井家の遺伝子によって高身長であったともいわれ、以前にもこのコラムで説明したように、上記のような特徴から「秀頼は秀吉の実子ではない」と結論づけるのは早計でしょう。

 秀頼は、幼い頃から書を学び、学問に深い造詣がある人物でした。これは秀吉譲りの才能かもしれません。秀吉は「農民の子」と蔑まれがちですが、非常に達筆ですし、自分の考えを思ったとおりに文章化できるという、当時では稀な才能がありました。さらに茶々は教育熱心だったので、早期から英才教育を受けた秀頼の知性はいっそう磨かれました。

 秀頼は、関ヶ原の戦い以降はさらに幅を利かせるようになってしまった徳川家康を抑制するべく、己の知性を政治パフォーマンスに活かしています。中国古代からの聖人君子の事績を集めた『帝鑑図説』という教育書を自ら編集し、通称・秀頼版の図説を有力大名たちに配ったのです。当時、秀頼はまだ14歳の少年でしたが、この頃にはすでに、自らを早熟の聖人君子で「天下人」にふさわしい器であると周囲にアピールしていたのでしょう。

 また、秀頼は伝統文化の保護にも熱心で、戦乱の世の中で廃絶したり衰退した寺や神社を熱心に復興させたことで知られました。そうした文化活動の中で、徳川家との深刻な不協和音が発生してしまったのが、次回のドラマで取り上げられるであろう「方広寺鐘銘事件」ですね。(1/2 P2はこちら

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