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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』家康の「寵臣」井伊直政は関ヶ原での先鋒を奪い取った?

実子は放置するも…井伊直正には甲斐甲斐しかった家康

『どうする家康』家康の「寵臣」井伊直政は関ヶ原での先鋒を奪い取った?の画像2
井伊直政(板垣李光人)| ドラマ公式サイトより

 もともと家康は、自身の後継者と考えていた秀忠に先鋒を任せるつもりでいました。しかし、秀忠は真田家の足止めをくらって関ヶ原への到着が大幅に遅れてしまいます。東軍の精鋭を任されていたはずの秀忠が開戦に間に合わないと判明した時点で、先鋒は福島正則となりましたが、後継者に武功を立てさせたいと考えていた家康からすれば、その代替案に心からは納得できなかったのではないでしょうか。そこに家康最大の寵臣である井伊直政が、秀忠の同母弟である松平忠吉に先鋒を務めさせるという奇策を思いつき、家康もそれに同意した……というあたりだったのではないかと思われます。

 松平忠吉は、秀忠同様、家康の側室・於愛の方が産んだ子です。しかし家康の親戚筋にあたる東条松平家の当主・松平家忠の養子に出されていたので、忠吉は家康の子でありながら、徳川ではなく松平の姓を名乗ることになったのですね。当時21歳の忠吉にとって、関ヶ原はやや遅めの初陣でした。忠吉は井伊直政の娘を正室に迎えており、忠吉にとって直政は舅にして後見役という立場です。家康の実子であり、直政にとっては娘婿である忠吉に戦功を挙げさせることは、家康・直政双方にとって、かつては秀吉子飼いの大名として知られていた福島正則を先鋒にするよりもベターに思われたのではないでしょうか。

 家康の側近だった松平家忠の日記『家忠日記』には関ヶ原当日の記録はなぜかないのですが、家忠の孫にあたる忠冬が編纂した『家忠日記増補追加』には興味深い記述があります。開戦直前、井伊直政は松平忠吉を連れて福島隊に近づいたそうで、福島家の家来から行動を怪しまれた直政は「抜け駆けは許されませんぞ」などと注意されました。しかし直政は平然と「家康公が、忠吉さまと私に斥候(=偵察活動)をお命じになられた」と言い訳し、福島隊の前に進み出ると、忠吉とともに大声をあげ、鉄砲を打ち鳴らしながら西軍に突っ込んでいって、実質的に先鋒を奪い取ってしまった……というのです。直政は、「あくまで斥候のつもりだったが、敵に怪しい動きが見られたので、福島隊を守るため、特攻せざるをえなかったのだ」という演技をしたのでしょう。

 直政と忠吉は大きな武勲を挙げましたが、ほとんど部下も連れぬままであったからか(連れていたところでわずか数十名程度)、両名ともに鉄砲傷を負ってしまいました。関ヶ原の戦い自体は半日で終了し、家康率いる東軍の圧勝に終わったので、当日の夜に開かれた合戦の総括では、本来なら罪となるはずの直政と忠吉の抜け駆けについて、家康は怒るどころか、上機嫌で「直政の抜け駆けは今に始まったことではない」と答え(『寛政重修諸家譜』)、直政の傷に自らの手で軟膏を塗ってやり、やさしく労わる姿を皆の前で見せつけたといいます。

 しかし、家康は一方で、直政同様に鉄砲傷を負った忠吉のことは放置していたそうです。『永内記』では「薩摩守(=忠吉)御手負れ候には、御頓著なく」などとあるように、一次史料ではないものの、我が子より直政を寵愛していることを隠そうともしない家康の姿を記している文献が多くあるのは興味深いですね。「我が子より家臣を大事にする」という家康の人徳を持ち上げる論調ではあるのですが、家康にとって忠吉はあまり可愛く思えない息子だったのでしょうか。

 もっとも、直政は関ヶ原開戦の前日、大坂城から出ぬままだった西軍の総大将・毛利輝元の調略を成功させており、抜け駆けの罪も、関ヶ原を勝利へと導く多大な貢献により不問にされたという面もあるかもしれません。とはいえ、以前にもこのコラムで紹介したとおり、家康の「色小姓(=男性の愛人)」であったと目されるほど、直政が特別扱いされていたこともまた考慮するべきでしょう。

 『どうする家康』の公式サイトには、第43回の場面写真の中に、本多忠勝に支えられた直政が腕を押さえているように見える写真が公開されていますが、ドラマの直政は腕を狙撃されるのでしょうか。関ヶ原での直政の負傷箇所にはさまざまな説があります。重くて頑丈な鎧を着て戦う習慣があったがゆえに、鎧に着弾した鉛玉が砕けて弾け飛び、その破片が足や腕に当たったという説もあります。少なくとも右肘には酷い負傷をしていたと思われます。関ヶ原以降、直政は書状に花押を記さなくなったからです。

 慶長6年(1601年)の論功行賞では、一番に直政の名前が挙げられました(『東照宮御実記』)。報奨として佐和山城と18万石が与えられたものの、しかし直政は体調を悪くしていき、翌年には亡くなってしまっています。おそらく身体にめりこんだ鉛の鉄砲玉の破片が当時の医学水準では取り出すことができず、折からの体調不良も手伝い、鉛中毒が深刻化して亡くなってしまったのではないか……と考えられます。

 直政の健康状態の悪化については、佐和山で石田家に仕えていた女房たちが関ヶ原の敗戦にともない、集団投身自殺を遂げたことに由来する祟りのせいだという怪談もありますね。そういう話が創作され、語り継がれるほど、直政の病状は苦しいものだったのかもしれません。

 直政の死について、なぜか家康の公式伝記『東照宮御実記』は一行も記していないのですが、おそらく直政を溺愛していた家康が「天下人」にふさわしからぬほどの悲嘆を晒してしまったからではないか、と筆者は考えています。

 その一方で、慶長12年(1607年)の『御実紀』によると、松平忠吉が病死したと告げる使者が来ても家康は実にそっけない態度を見せたそうで、傍に控えていた天海僧正からのお悔やみの言葉にも「秀忠が、弟を失って悲しむだろう」とか「この頃の(忠吉の)病状ならば、そうであろう」と言うだけだったそうですよ。

 史実の家康には、我が子以上に寵愛する男性がいたのかもしれません。ドラマの家康は直政に熱視線を向けることはありませんが、直政との強い結びつきがもう少し劇中で描かれていれば、直政の関ヶ原での活躍、そして早すぎる死は一層感情移入できるはずなのに……と残念に思ってしまう筆者でした。

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堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/11/12 11:00
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