トップページへ
日刊サイゾー|エンタメ・お笑い・ドラマ・社会の最新ニュース
  • facebook
  • x
  • feed
日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 徳川秀忠の「関ヶ原への大遅刻」の理由
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』徳川秀忠の「関ヶ原への大遅刻」と真田昌幸・信繁の「足止め」

真田昌幸に「足止め」された徳川秀忠

『どうする家康』徳川秀忠の「関ヶ原への大遅刻」と真田昌幸・信繁の「足止め」の画像2
徳川秀忠(森崎ウィン)| ドラマ公式サイトより

 蜂起した三成は家康討伐のため、全国の有力者に協力を要請する書状を送ります。その中には、家康にとっては宿敵ともいえる真田家の面々もいました。

 会津の上杉討伐に向かう徳川家康は、上方において三成が「西軍」を結成したことを知って憂慮し、下野国・小山(現在の栃木県小山市)における7月25日の評定の結果(いわゆる小山評定)、上杉討伐を中止し、上方に向かうことになりました。小山評定は後世に作られた虚構だったという説も最近は出ていますが、その点については説明しているとキリがないので、このくらいで留めておきます。家康はなぜか8月4日まで小山に留まった後に、上方に向けて進軍開始しました。

 それより少し前、家康は配下の真田家に出兵を要請しており、真田父子は沼田を出立しました。犬伏(現在の栃木県佐野市)で陣を張って、徳川秀忠の率いる軍勢・約3万8千がそこに合流する予定だったのですが、その直前、彼らのもとに三成からの密使が到着したのが7月21日のことだといわれます。

 真田家と三成は親戚関係にありました。まぁ、「表裏比興」とされる真田昌幸は情に流される人物でもなさそうですが、それはともかくこの日、三成からの手紙を読んだ昌幸は家臣たちを完全に締め出して父子3人だけで密談し、自分と次男の信繁は「西軍」に付き、長男の信幸だけは「東軍」に付かせるという判断を下しています。いわゆる「犬伏の別れ」の名場面です。西軍と東軍のどちらが勝っても真田家は生き残りを図れるものの、家族が敵と味方に分かれねばならないというつらい選択をしたのでした。

 ドラマの次回予告では「真田の狙いは我らをここに足止めすること」というセリフが聞こえてきますが、これは昌幸・信繁父子がかなりの期間、徳川秀忠率いる部隊の足止めに成功したという一連の動きを指しているのでしょう。

 秀忠の部隊は東軍における第二の本隊ともいえるもので、家康たちの隊とは別ルートで上方に向かっています。その彼らが真田家の所領のそばを通過する際、昌幸は上田城に、そして信繁は戸石城に入り、秀忠隊を挑発してみせました。それを受けて秀忠は、配下でありながらもいまいち信頼しきれない真田信幸に、信幸の弟・信繁の守る戸石城を攻撃しろと命令します。

 この時点で、秀忠は正式な家康の後継者として内定していたわけではなく、有力候補の1人にすぎませんでした。秀忠は自分が有能な人材であると家康に証明するため、関ヶ原において抜群の働きを見せねばならなかったのですが、目的地までの途中で真田家による挑発作戦にまんまと乗せられ、「足止め」されてしまったのです。ドラマでは、〈秀忠に真田昌幸の攻略を任せ、江戸に戻った家康〉とあらすじにあることから、家康が秀忠(森崎ウィンさん)に西軍についた真田昌幸(佐藤浩市さん)を攻めるよう言い渡すことになりそうですが……。

 しかし、信繁はあっさりと戸石城から退却してしまい、父・昌幸のいる上田城に移動しました。それ以降、秀忠隊と、上田城に籠城した昌幸・信繁が送り出す兵たちの小競り合いが繰り返されたのですが、秀忠隊は大軍であるにもかかわらず上田城を落とすことができず、そのまま時間だけが過ぎていったのです。

 秀忠が上田に長く留まった理由はほかにもあり、当時の信州は秋の長雨の真っ只中でした。足元が悪いのに大軍を進ませれば、地の利がある真田軍から挟み撃ちにされる危険性も考えられ、動くに動けなかったという事情もあるようです。

 家臣の進言にようやく耳を貸した秀忠が上田攻めを切り上げ、家康率いる東軍本隊に大津で合流できたのは9月20日でした。関ヶ原の戦いは9月15日に開戦・終戦しており、5日の大遅刻です。

 家康は激怒のあまり、謝罪したいという秀忠に会おうともしません。そこで父子の間に立ってくれたのが榊原康政でした。秀忠は家康からの「早く来い」という要請を無視したのではなく、悪天候で家康からの使者が川を渡れずに秀忠への連絡が遅れただけだと康政が説明してくれたので、家康も怒りの矛を収めざるをえなくなりました。しかし、秀忠のこの大遅刻は彼の人物評価に大きく影響し、その後も変わらず秀忠を推してくれたのは大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)のみでした。その場では弁護してくれた康政を含め、家康の側近には、秀忠を家康の後継者にふさわしいと考える者はいなくなってしまったのです。

 もっとも、家康が最終的に自分の後継者として選んだのはその秀忠でした。当時、徳川家中で人望があったのは、上杉勢の牽制に成功した結城秀康や、関ヶ原の戦いでの活躍が見られた(秀忠の同母弟である)松平忠吉だったのですが、名実ともに「天下人」となり、太平の世を築いた後の家康は、乱世で輝く武将タイプではなく、優秀な政治家タイプである秀忠の素質を買ったのです。

 ちなみに、秀忠を長期にわたって足止めした真田昌幸・信繁には当初、死罪が申し渡されましたが、信幸と(信幸の妻の父親である)本多忠勝が家康に真田父子の助命嘆願をしてくれたので、昌幸と信繁には、高野山・九度山(現在の和歌山県)で死ぬまで蟄居謹慎していろという命が改めて下されました。昌幸はその後10年ほどを九度山の地で過ごし、そのまま亡くなりましたが、最後まで徳川に復讐する計画を練っていた……などと創作物では描かれがちです。しかし、史実における昌幸の晩年は、信幸が家康に取り入ることで、寒くて暮らしにくい九度山での幽閉生活から自分たちをいつか開放してくれるだろうと信じ、恩赦を待つ哀れなものだったようです。信繁はまだ若く、体力・気力があったからか、九度山での「ニート生活」をそこそこ満喫していたようで、兄・信幸などに物資や酒をねだったり、側室に子を何人も産ませたりしていましたが……。

 まぁ、最終回まで残りわずかなドラマの中では真田昌幸・信繁の「その後」が描かれる余裕はなく、大坂の陣で、老けメイクの信繁が家康への復讐に燃えて再登場するだけとなりそうな気もしますが、つくづく、もう少し時間の余裕があったらなぁ……と思わされる最終回直前の『どうする家康』でした。

<過去記事はコチラ>

堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/11/05 11:00
12
ページ上部へ戻る

配給映画