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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 徳川秀忠の「関ヶ原への大遅刻」の理由
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』徳川秀忠の「関ヶ原への大遅刻」と真田昌幸・信繁の「足止め」

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』徳川秀忠の「関ヶ原への大遅刻」と真田昌幸・信繁の「足止め」の画像1
大谷吉継(忍成修吾)と石田三成(中村七之助)| ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』第41回「逆襲の三成」は、石田三成(中村七之助さん)挙兵~大坂城の占拠まででしたね。実際はかなり盛り上がっていくべきところなのですが、残りの話数が少ないからでしょう、大河ドラマの本編を見ているのに、まるで総集編を見ているかのような急な展開が目立った気がします。

 まずはこれまでほぼ出番のなかった大谷吉継について少し触れておきましょうか。忍成修吾さん演じる『どうする家康』の吉継は、秀吉(ムロツヨシさん)が亡くなった第38回の初登場の時こそ素顔でしたが、第41回では白頭巾で顔を隠しているキャラとして再登場しました。白頭巾姿になった経緯が説明されないままの再登場だったため、今回初登場だと勘違いした方が多かったことと思われますが、ドラマの吉継が白頭巾をかぶっていた理由は、後に触れられていたように病気(一説にはハンセン病)によるもので、病気によって変貌してしまった素顔を人に晒すことに抵抗があるだけでなく、病気を他人に伝染させないための配慮のようです。

 第41回では、会津征伐に向けて石田三成の三男を連れて行くとした吉継が佐和山城を訪れる場面がありました。三男の代わりに甲冑姿の三成が現れ、家康を討つと宣言すると、吉継は「無理だ!」などと反対しましたが、三成は吉継の茶碗に残った(感染の恐れのある)茶をグッと一息で飲み干して「うつして治る病なら私にうつせ!」と呼びかけることで仲間に引き入れていましたね。ドラマでは触れられてこなかった吉継と三成の友情の強さを、このシーンに凝縮して伝えるような演出でした。吉継は驚きながらも、「私と運命を共にしてほしい」という三成の意志の強さに気づくのです。

 このシーンには実は「元ネタ」があります。茶道では相互信頼の証しとして同じ茶碗の茶を出席者全員で分かち合うことがあるのですが、大坂城で開かれた茶会で病気の吉継が茶を飲もうと顔を傾けたとたん、膿が茶碗の中に垂れてしまい、それを見た一同が凍りつく中、三成だけが吉継から茶碗を受け取って嫌がらずに飲んだ……という、歴史好きには有名な逸話があるのです。もっとも、このややグロテスクな友情話は明治以降に創作されたものであり、当時はおろか、江戸時代の書物にも見られません。

 史実の吉継が長年にわたって体調不良であったことは、複数の同時代人の証言からも事実であることがわかっていますが、病名は不明ですし、どんな症状が出ていたかについても具体的にはわかりません。文禄3年(1594年)、吉継は直江兼続に書いた手紙の中で「目を患っている」と述べており、これだけが吉継の病状を伝える唯一の確実な情報のようです。『どうする家康』の吉継は「大病から復帰した」という設定で、少なくとも目だけは健康のようですが……。

 第41回で初登場だった大野治長(玉山鉄二さん)についても補足しておきましょう。ドラマでは、家康暗殺未遂計画はさらっと描かれるだけに終わりましたが、容疑者とされる3人が家康(松本潤さん)から処罰を言い渡される場面では、大野治長だけが納得のいかないような面持ちを見せ、それを見咎めた家康から「死罪を免じたのは我が温情と心得よ」と半ば脅されたことで、渋々頭を下げるという強気なキャラだったのには驚きました。史実の治長は優柔不断で、大坂の陣では、真田信繁の「討って出るべき」とする積極策を退け、最初から籠城作戦という消極策を主張したエピソードでも有名です。彼は乳きょうだいである茶々の言いなりという印象も強いのですが、ドラマオリジナルの設定が多そうな治長が今後どのように描かれていくのかには興味を惹かれました。

 次回・第42回は「天下分け目」ということなので、内容は小山評定~伏見城陥落~関ヶ原開戦前までといったところでしょうか。予告映像では、伏見城を守る鳥居元忠(音尾琢真さん)が「殿……お別れだわ……」と言う場面がありました。合戦のダイナミズムを重視する傾向が強い『どうする家康』のことですから、元忠はナレ死ではなく、妻の千代(古川琴音さん)とともに壮絶な戦死を遂げそうな気がします。

 前回の本コラムで少し触れたように、慶長5年(1600年)6月18日、家康は大軍を率いて伏見城を出立し、会津の上杉家討伐の途に就きました。留守を頼まれた元忠たちは、上方における家康の居城の伏見城を1800ほどの兵で守っていたのですが、7月18日、石田三成の命による4万もの兵に城を取り囲まれ、降伏勧告を拒否した元忠の部隊との交戦が始まります(伏見城の戦い)。

 元忠隊は善戦しましたが、ついに8月1日、伏見城内に敵兵がなだれ込み、元忠はその時点での生き残り300人の兵とともに、壮絶な戦死もしくは自害を遂げました。京都市内の養源院をはじめとした複数の寺院に、元忠たちの流血の跡を留める床板を天井板に張り替えた、いわゆる「血天井」が今でも見られます。これらは、伏見城の戦いの凄まじさを物語ると同時に、最後まで主君・家康を裏切らなかった忠義の武将・鳥居元忠の姿を後世に伝えるものです。

 元忠隊は「全員が戦死した」と伝えられていますが、江戸時代の軍記物語――たとえば幕末の『名将言行録』などには、彼らの奮戦ぶりがまるで見てきたかのように記されているので、実際は生き残った誰かが「語り部」になったのかもしれません。ドラマでは千代がその役割を果たしたということになると面白そうです。(1/2 P2はこちら

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