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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 家康「最後の大敵」毛利輝元と上杉景勝
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』では上杉景勝の影が薄くなる? 毛利輝元の「裏切り」はどう描かれるか

家康と三成の間で揺れた毛利輝元

『どうする家康』では上杉景勝の影が薄くなる? 毛利輝元の「裏切り」はどう描かれるかの画像2
毛利輝元(吹越満)| ドラマ公式サイトより

 慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いは、会津の上杉景勝に謀反の疑いがあるとして、家康が会津討伐を決定したときにすでに始まっていたといえます。この年の7月に大軍を率いて大坂城・西の丸を発った家康は、いったん江戸に戻って軍備を整え、そこから会津に向けて進軍する計画でした。しかし、家康不在となった上方では、輝元の手で隠居したはずの石田三成が、実は輝元たちと結託して「西軍」を密かに形成しつつあったのです。

 家康が大坂を出発した直後、増田長盛らの要請を受けた輝元は、広島から猛スピードで大坂にやってきて、家康不在の大坂城・西の丸を占拠してしまいます。名目は「警護」でしたが(『義演准后日記』)、周到に準備された末のクーデターであったことに変わりありませんでした。これにより家康は、前方に控える会津の上杉勢だけでなく、背後を大坂の輝元・三成に取られ、前後を敵に挟まれるという大ピンチになってしまったのです。

 この挟み撃ちについては、三成と交友があったとされる(上杉景勝の腹心の部下の)直江兼続が共謀した計画だとする創作物もあるのですが、史実性は低いです。また、家康が会津・上杉家討伐に踏み切ったのは、直江兼続が家康を真正面から批判し、戦も辞さないという構えであることを綴った書状、通称「直江状」を書き送ってきたからともいわれますが、現存する直江状には当時の言葉遣いではないと思われる部分が含まれており、少なくとも実物かどうかという点で議論があります。上杉謙信も名前だけの登場に終わりましたし、やはり『どうする家康』では上杉家関係はあまり深くは踏み込んで描かれることなく終わりそうな気がしますね。

 三成たちが結成した西軍は、毛利輝元が総大将を務め、それを宇喜多秀家、増田長盛といった人々が支える形でした(ちなみに関ヶ原の戦いにおける「西軍」「東軍」という有名な呼称に史実性はありません)。三成はというと、奉行職を辞任、佐和山城で隠居という身の上だったこともあり、役職上は西軍における代表的地位にあったわけではないのですが、しかし彼こそが西軍の中心であり、家康の関西における居城だと秀吉が定めた伏見城の攻撃も、三成が決定しています。

 伏見城は当時、鳥居元忠が2000にも満たない兵で守っていたのですが、4万もの西軍に取り囲まれても元忠は降伏を拒絶し、7月19日の開戦から半月たってもなお、落城を食い止めていました。

 会津征伐に向けて江戸にいた家康は、三成たちに怪しい動きがあることは察知していたものの、7月21日、上杉討伐軍の進軍を開始しています。伏見城が攻められているという具体的な情報を家康が掴んだのは進軍から3日後、24日になってからでした。現在の栃木県にいた家康らは諸将を集めて軍議を開き、会津の上杉景勝に背中から討たれぬよう一部の兵は留め置くが、上杉討伐のために集めた大量の物資、兵士を使って西軍を討つべく、上方に引き返すことを決定しています。いわゆる「小山評定」ですね。この評定では、三成の発案で妻子を人質に取られていた大名たちも多いなか、山内一豊や福島正則といった豊臣恩顧の大名たちが家康に味方すると表明し、家康有利に状況が大きく動くことになります。

 上方に戻る家康の「東軍」と、東軍を打つべく上方から進軍してきた「西軍」が相まみえたのが、美濃国(現在の岐阜県)関ヶ原でした。関ヶ原の戦い自体は開戦日である9月15日に終わってしまいましたが、その前哨戦は7月から始まっていたわけですね。

 関ヶ原の戦いがわずか一日足らずで終結した背景には、西軍の総大将だったはずの毛利輝元の裏切りが大きく影響しました。関ヶ原開戦の前日(9月14日)、大坂城から一歩も出ぬままだった輝元は、井伊直政・本多忠勝の仲介のもと、家康との和睦に文書で合意してしまっていたのです(『毛利家文書』)。石田三成=安国寺恵瓊の陣営に影響されていた輝元を最終的に家康側に呼び戻したのが、毛利の分家筋にあたる吉川広家だったこともあり、和睦の条件として、輝元だけでなく、吉川広家たち関係者のことも「粗略にしない」と家康に約束させたことが注目されます。

 西軍の裏切りといえば、小早川秀秋も開戦当日に裏切り、東軍勝利へと戦局を大いに傾けましたが、実はこれも、関ヶ原開戦の数週間前にあたる8月28日に家康から秀秋に東軍への寝返りを求める書状が送られており、9月14日の時点で家康が秀秋からの合意を受け取っていた、と歴史学者・黒田基樹氏の研究で判明しています。つまり関ヶ原の戦いの勝敗は、開戦以前にほぼ決していたわけですね。

 もちろん、輝元が土壇場で家康を再び裏切り、西軍総大将としての役目を全うしていたのなら、歴史は変わっていたかもしれませんが、輝元がそうしなかったのは、「徳川と争っても勝てない」と輝元に納得させてしまった家康の老獪すぎる外交手腕による勝利といったところでしょうか。それでも関ヶ原において実戦が行われたのは、武将として戦で明確にカタをつけることが望まれたからなのでしょう。

 三成を佐和山城に隠居させた決定を下したのが家康とする(らしい)ドラマの設定は、三成と家康の間を揺れ動いた毛利輝元の二転三転する姿勢をわかりやすく見せるためなのかもしれません。となれば、土壇場で三成を裏切る輝元がドラマティックに描かれることでしょう。吹越満さん(輝元)と中村七之助さん(三成)の迫真の演技合戦が見られることを今から期待してしまっている筆者でした。

<過去記事はコチラ>

堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/10/29 11:00
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