『どうする家康』の茶々は家康を惑わす悪女? 大野治長との関係はどう描かれるか
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
本連載、前回は休載させていただきましたが、『どうする家康』はこの2回で物語が大きく動きました。第37回「さらば三河家臣団」は小田原征伐と、家康(松本潤さん)と家臣団の関東転封が中心に描かれ、第36回「於愛日記」は於愛の方(広瀬アリスさん)の退場回となりました。回を追うごとに秀吉(ムロツヨシさん)の「なんでも欲しがる病」が悪化していくさまが印象的でしたが、それ以上に第36回終盤、秀吉の側室となった茶々の登場シーンのインパクトが大きかった気がします。お市の方を演じていた北川景子さんに茶々役として再登板を希望する声が一部でありましたが、本当に実現したのはさすがに驚きでしたよね。
とりわけ、茶々が初対面の家康に向かって、火縄がくすぶる鉄砲を向けて「ダーン!」と一声あげたシーンには驚かされました。すぐに茶々は表情を崩してケラケラと笑い出すのですが、容貌こそ母・お市そっくりなものの、絢爛豪華な着物の好み、濃いめのお化粧など、「姫君」というよりはまるで「遊女」のように婀娜(あだ)っぽい、母親とはまるで異なるタイプの女性として描かれていたように思います。
次回・第38回「唐入り」の予告では、茶々が家康の手を取り、「お慕いしてもようございますか」と迫るシーンも見られました。史実でいうと、家康と「仲が良かった」といえるのはむしろ秀吉の正室・ねねの方(ドラマでは和久井映見さん演じる寧々)でしょうから、この場面には驚かされました。
ドラマでは今後、秀吉の跡継ぎ・秀頼を生んだことで強い権力を手に入れた茶々が、秀吉の死後、豊臣家中を牛耳るようになり、秀吉の正室・ねねの零落ぶりを見かねて家康が彼女の身柄を引き受ける……という流れになりそうですが、史実における家康とねねの関係については諸説あります。男女の仲だったという話もあるのです。
ねねは本名不詳の女性で、「ねね」とはニックネームです。当時の言葉で「ねんねちゃん」というような意味がありました。彼女はずっと「子どもがいない正室」という非常に微妙なポジションにあり、実際に秀吉とは夫婦危機もあったようですが(後述)、基本的には秀吉から寵愛され続けただけでなく、後年にいたるまで、「ねんねちゃん」というニックネームどおりまるで少女のように甘やかされながら、正室として側室たちの上位に君臨することができました。しかし秀吉が亡くなると、彼の跡継ぎを産んだ茶々に家中を取り仕切られるようになり、正室であるはずのねねの居場所がなくなりました。その結果として、不満を募らせたねねが家康に接近していった……と見ることもできるでしょう。
ドラマの茶々は、実家の再建のために家康に近づいた側室のお万(松井玲奈さん)のように「女」を使って生きていかざるをえなかった女性として描かれそうですが、「お慕いしてもようございますか」と家康に迫る予告映像の場面が、秀吉にしたように「ハニートラップ」を仕掛け、家康の籠絡を試みているということであれば、「悪女」的なキャラクターになるのかもしれません。第30回で「徳川殿はうそつき」「あの方を恨みます」と、母・お市からの援軍要請を無視した家康を非難し、「母上の無念を茶々が晴らします。茶々が天下を取ります」と宣言していたように、ドラマの茶々は、母を「見捨てた」家康を憎んでいるはずです。その家康に「迫る」とは、茶々は複雑な内面を抱えた女性として描かれるに違いありません。
あるいはドラマの茶々は、秀吉の寵愛をいいことに、自由奔放に振る舞っているようにも見えますね。すべて計算ずくの権謀術数の「悪女」というより、ひたすらに「ファム・ファタール(=男性を滅ぼす妖婦)」で、手練手管を駆使して家康に迫ったのに、彼が思うようにはノッてこなかったので好意が憎しみに転じ、彼の前に立ちふさがるようになる……という描かれ方になるのかもしれません。
拒まれたことで憎悪が生まれるとはあまりに勝手な理屈ですが、実は、茶々と家康の立場を逆にした――つまり茶々に拒まれた家康が彼女(とその愛人)を恨み、滅ぼしてやると思い立ったという、実に面妖な記録が本当に存在しています。信憑性はともかく、こうした記録が残っているということは、少なくとも家康は誰彼となく手出しする「タヌキおやじ」として当時の世間から認識されていたということを意味しているわけで、ねねだけでなく、茶々との間のことも密かに噂されていたようですね。
秀吉による朝鮮出兵の際に捕虜として日本に連れてこられた姜沆(きょうこう)という人物がいたのですが、彼が日本での生活を記した『看羊録』という書物によると、秀吉の遺命によって家康は茶々を娶ろうとしたものの、茶々は(昔から愛人だった)大野治長の子を宿していたので、家康からの申し出を断った……という話が載っており、拒まれた家康が茶々と治長に強烈な敵意を抱くようになったとされています。いかにも週刊誌風のゴシップめいた内容ですが、姜沆は、儒教の一流派である朱子学者としてはかなり優秀です。つまりこれを書いたのが「知識人」であることを考えると、茶々と家康に再婚話があったという荒唐無稽な話も、ただの噂と簡単に否定できるものではないかもしれません。
もっとも、作家の司馬遼太郎は、姜沆という人物について「『虚実ヲ得ン(=真実と嘘を見極めるぞ)』と意気ごみながらも、現実直視能力というものは残念ながらあまりない」と評価しています。要するに、家康と茶々の再婚話はただの噂にすぎなかったものを、学者先生の姜沆が真に受けて記録に残してしまったことで、後世の研究家を混乱させるようなことになった……と、司馬は言外に批判しているのでしょうね。
いずれにせよ、この姜沆の記述も手伝って、秀頼は秀吉の実子ではなく、茶々が大野治長と密通して生まれた子だとする説が、現代にいたるまで一部では根強く信じられています。(1/2 P2はこちら)
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