トップページへ
日刊サイゾー|エンタメ・お笑い・ドラマ・社会の最新ニュース
  • facebook
  • x
  • feed
日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 徳川家康と石田三成の実際の関係
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』では家康と三成が友情を築く? 史実の2人の関係性は…

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』では家康と三成が友情を築く? 史実の2人の関係性は…の画像1
徳川家康(松本潤)と石田三成(中村七之助)| ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』第35回「欲望の怪物」は、徳川家康(松本潤さん)が重い腰を上げてついに上洛し、石田三成(中村七之助さん)と出会うシーンに注目が集まりそうです。

 江戸時代には、関ヶ原の戦いで「神君」家康に敵対したことを理由に忌み嫌われ、秀吉亡き後の豊臣政権を私物化した奸臣として描かれがちだった三成ですが、明治時代以降は、秀吉を支えた才能豊かな文官として再評価され始めました。現代では、明智光秀と並び、女性ファンが非常に多い人物という印象です。三成の数少ない理解者だった大谷吉継からは「お前には人望がないから家康には勝てない(要訳)」といわれるほど、世渡りと人付き合いがヘタだった三成ですが、まさにそこが、彼の秀吉への強い忠義心と相まって、歴史好きの女性たちを萌えさせるのだとか。

 そんな三成が『どうする家康』ではどのように描かれるのか興味深いところですが、ドラマ公式サイトの三成のプロフィールには〈家康もその才能に惚れこむ〉とあり、少々驚きました。予告映像では、三成は家康と星を見上げ(?)「気が合いそうでござるなあ」と話しかけていましたね。本当に2人は気が合った……のでしょうか? 歴史的創作物において、家康と(一時的にせよ)意気投合する三成など、ほとんど見た記憶がありません。それほど三成と家康は水と油、犬猿の仲として描かれることが多かったわけですが、それでは史実ではどういう関係だったのでしょうか。今回は石田三成の実像について、少しお話ししようと思います。

 三成はいわゆる「戦国武将」にカテゴライズされていますが、一般的な彼のイメージは、豊臣政権における有能な官僚、つまり「槍働き」をしない文官として出世を重ねたというものだと思います。

 しかし、本当のところは三成にまったく「槍働き」、つまり武勲がなかったわけではありません。『どうする家康』では映像化されませんでしたが、秀吉と柴田勝家が激突した賤ヶ岳の戦いにおいては、大谷吉継、一柳直盛、石川貞友(のちの石川一光)などと共に「先駆衆」の一員として三成は大活躍し、雑兵の首を取っては腰にぶら下げていったところ、「重くて動けなくなるから、兜首(=身分の高い武将の首)以外は置いていけ」と吉継からアドバイスを受けたほどでした。

 この時「先駆衆」と共に戦っていたのが、後に「賤ヶ岳の七本槍」として有名になる加藤清正・福島正則たちの一団です。本来であれば、三成たち「先駆衆」の4人も加えて、「十一本槍」などというべきだったのかもしれませんが、清正、正則らは秀吉と血縁的にも立場的にも近く、そのことを誇りにしている彼ら「秀吉子飼い」の武士たちにとって、ポッと出の「外様(とざま)」に過ぎない三成たちと同列に扱われることは心外だったのでしょう。そもそも、福島正則は七本槍では最年長の脇坂安治でさえ軽蔑していることを隠そうともせず、「脇坂などと同列にされるのは迷惑」と発言していたり、加藤清正は七本槍と一括りにされること自体に拒否反応を示すなど、七本槍の7人の中でも秀吉との距離が特に近い者はそれ以外の者と同列に扱われたくないという考えがあったほどです。

 結局、このように自己主張が強すぎる「秀吉子飼い」の人々が豊臣政権で幅を利かせていたため、三成などは彼らの輪の中には入れてもらえず、まともに交流することもできないという状況が続きました。彼らとの関係は、秀吉の存命中はまだマシだったのですが、秀吉が亡くなると不和が深刻化します。秀吉の死後に、秀吉子飼いの武将たちのうち、加藤清正や福島正則ら「七将」(七本槍とは少し面子が異なる)による「三成襲撃事件」が起きました。これが関ヶ原の戦いの前年ですから、このように敵の多い三成が家康に勝てる見込みはこの頃からすでにほとんどなかったことも透けて見えるような事件ですね。

 しかし、改めて史実の三成の交友関係を考えると、そこに家康は含まれていなかったと考えたほうがよいと思われます。読者もよくご存知のように、三成はその生涯に少なくとも二度、家康と正面衝突しているからです。

 最初の衝突は、秀吉の死後すぐの時期に起きました。事の発端は、秀吉が定めた大名同士の私婚禁止令――つまり、自分都合での政略結婚を進めてはいけないという決まり事を家康が率先して破り始めたことでした。三成はこれを咎め、「四大老」の筆頭格である家康を弾劾しようと動きます。毛利輝元、前田利家など三人の大老たち、自分以外の三人の奉行たちの同意を三成は得ますが、すでに家康に接近を見せていた藤堂高虎が弾劾決行の前夜、家康に情報をリークしてしまったことをきっかけに反・家康派はまたたく間に家康側にとりこまれ、三成が意図した豊臣政権からの家康の追い出しは叶いませんでした。

 三成に賛同していたはずの前田利家が手のひら返しのような裏切りを見せたのも、三成にとっては痛かったでしょう。重病だった利家は、自分は先が長くないと感じ、「嫡男・利長のことをよろしく頼む」という一点と引き換えに家康と勝手に和解してしまったので、三成の家康弾劾計画は完全に腰砕けになってしまいました。利家は利家で、三成には秀吉亡き後の豊臣家を引っ張っていけるだけの素質がないと気づき、見限ったのかもしれませんが……。

 2回目の三成と家康の衝突は、いうまでもなく関ヶ原の戦いです。これはドラマでも詳しく描かれるでしょうから、ここでは触れません。いずれにせよ、ドラマの家康と三成に友情が芽生えるというのであれば、家康が瀬名姫(築山殿)とは熱愛関係であったという設定同様に、『どうする家康』特有のチャレンジングな、ドラマオリジナルの人間関係が楽しめるかもしれませんね。(1/2 P2はこちら

12
ページ上部へ戻る

配給映画