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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 家康の継室・旭姫の悲しい運命
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』家康との政略結婚のために夫と離婚させられ…旭姫の悲しい運命

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』家康との政略結婚のために夫と離婚させられ…旭姫の悲しい運命の画像1
石川数正(松重豊)| ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』第33回は、石川数正を演じる松重豊さんのいぶし銀の演技が光っていましたね。

 小牧・長久手の戦いの講和条件について、秀吉(ムロツヨシさん)と家康(松本潤さん)の間を行き来していた数正ですが、本多忠勝(山田裕貴さん)・榊原康政(杉野遥亮さん)・井伊直政(板垣李光人さん)ら徳川家の若手幹部は「我らに損な話を突きつけられるばかり。老いたのかもしれん」と数正の交渉能力に不安を持ち、「秀吉から金をもらったといううわさも」と疑い始めます。家中では、秀吉軍を迎え撃つ「岡崎決戦」も辞さないという声が強まる中、数正のみが反対し、「秀吉のもとへ参上なさってはいかがでしょう」「あれ(秀吉)は化け物じゃ。殿は化け物にはかないませぬ。秀吉の臣下に入るべきと存じます」と家康に提案していましたが、そのときの数正のつらそうな表情からは、それが苦渋の選択であったことがうかがえました。

 名実ともに信長(岡田准一さん)を超えてしまった秀吉に臣従するしかないと結論づけた数正と、「(それでも秀吉に)勝つ手だてが必ずある。そなたがいれば……」と秀吉との決戦にこだわりつづける家康は最後の話し合いを行いますが、「弱く優しかった殿が、かほどに強く、勇ましくなられるとは。さぞや……さぞやお苦しいことでございましょう」と主君を慮り、「私はどこまでも殿と一緒でござる」「決してお忘れあるな。私はどこまでも殿と一緒でござる」と強調した数正は、秀吉のもとへ出奔してしまいました。岡崎決戦については本多忠勝が「この岡崎に残り、民百姓が何年も戦い続ける、それのみ!」と勇ましいことを言っていましたが、ドラマの数正はそうした激戦を避けるために、徳川家の軍事や内実について知り尽くしている自分が秀吉の臣下になることで、家康に「化け物」との決戦を諦めさせようとしたのかもしれません。

 数正が残した「関白殿下、是天下人也」との書き置きは、おそらく次回・第34回「豊臣の花嫁」の内容とも符号してくるはずです。これは家康に向かって「あなたは天下人の器ではない」と伝えているのではなく、今後は「天下人」秀吉の意向とどのように渡り合うかが重要になってきますぞ、という最後のアドバイスだったような気がするのです。

 次回のあらすじには〈打倒・秀吉を誓ったはずの数正が豊臣方に出奔、徳川家中に衝撃が走る。敵に手の内を知られたも同然となり、家康は追い詰められる〉とありますが、徳川家の軍事に精通していた石川数正が天正13年(1585年)11月13日に図った出奔が家康に与えた影響はあまりに大きいものでした。情報が流出したとみて、家康は武田家の軍政を模倣し、急場の軍政改革を実施したという話もあるほどです。しかし、秀吉は家康が体勢を立て直すことを許しませんでした。

 同年11月の和平交渉では、秀吉が家康の実子の上洛を望み、家康は側室・於万の方との間に生まれた於義丸(ドラマでは於義伊)を送ることになりました。秀吉は家康本人の上洛も強く望んでいたのですが、しかしこれはなかなか実現せず、家康も交戦姿勢を崩そうとはしません。そのため、11月28日、秀吉は味方にした織田信雄に命じて家康のもとへ使者を送らせ、講和を結ぶように勧告しました。ところが、家康は信雄の使者に「秀吉と講和は結ばない」と明言してしまいました。

 通常ならば、遠からぬ将来、ふたたび秀吉との間で大きな戦が起きていたでしょう。しかし、家康と信雄の使者が対面した翌日の夜、つまり11月29日の亥の刻(午後10時頃)に「天正大地震」が関西地方から中部地方にかけての広範囲を襲いました。マグニチュード7.2~8.1ともいわれる超巨大地震で、各地に甚大な被害が出ます。断続的に大きな余震が12月23日まで発生したと記録され、家康の所領にも少なからぬダメージがありました。

 家康にとって、この大地震は不幸中の幸いともいえるものだったかもしれません。天正大地震の被害は、家康の所領の中部地方より、秀吉の拠点である上方(関西)において凄まじかったからです。いくら権勢を誇る秀吉とはいえ、この状況では家康との即時開戦は不可能になったとの見方が強まりましたが、翌・天正14年(1586年)1月、秀吉は世間のそうした目算を打ち砕くべく、尾張への出陣を宣言します。もっとも、これは家康と争うためというより、尾張を本領とする織田信雄にプレッシャーを与えることが目的だったと思われます。秀吉の動きに信雄は焦り、ついに信雄本人が岡崎の家康を直接訪ね、和睦を勧めました。家康も、ここに至って秀吉との和睦を受け入れざるをえなくなるのですが、やはり上洛はしようとしませんでした。

 そこで秀吉は、新たな策として異父妹の旭姫(朝日姫とも)を家康の正室にさせるという政略結婚を考えました。家康には複数の側室がいますが、前正室・築山殿の死からは約7年が経過していたのです。

 しかし、旭姫は既婚者だったので、まずは彼女を夫から引き離す必要がありました。旭姫の夫は「佐治日向守」なる人物だったと伝えられることが多いのですが、その情報の出処は幕末に編まれた『改正三河後風土記』という史料です。お市の方の娘・お江が秀吉の意向により豊臣秀勝と結婚させられ、そのために佐治一成という武将と離婚させられたという逸話があり、福田千鶴氏は著書『江の生涯』(中公新書)で、後世の研究者がこの逸話を旭姫の離婚の話と混同してしまったのではないかと指摘しています。『江の生涯』によると、『改正三河後風土記』で旭姫の夫だったとされている「佐治日向守」には、諱(正確な名前)も後世に伝わっておらず、史料上、実在した痕跡が見当たりません。それゆえ、旭姫の実際の夫は、複数いる候補の中でも副田吉成(そえだ・よしなり)という武将であった可能性が強いと考えられます。ちなみに旭姫の最初の夫には、別れる見返りに秀吉から5万石の追加を打診されたものの、それを断って自害してしまったという逸話があります(『改正三河後風土記』)。ほかにも旭姫との離婚後、烏森村(かすもりむら、現在の愛知県名古屋市)に隠遁、出家したという説もありますが(『尾張志』)、真相はよくわかっていません。

 いずれにせよ、夫と離婚させられた旭姫は、家康のもとに送られることになりました。家康は「旭姫が男子を産んでも、徳川家の嫡男にはしないこと」「嫡男の長丸(のちの徳川秀忠)を人質にはしないこと」「旭姫や家康が亡くなっても、秀吉は現在の徳川領5カ国を長丸に継承させること」の3つの条件を秀吉に呑ませ、旭姫との結婚をようやく承諾しました。しかし、この交渉においても、真の勝者は秀吉だったと見ることができます。旭姫と家康が結婚するということは、秀吉にとって家康は妹婿、つまり義理の弟となり、家康は義理の兄である秀吉の意向に逆らいづらくなるからです。(1/2 P2はこちら

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