『どうする家康』石川数正の「裏切り」は秀吉が仕組んだものだった?
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『どうする家康』が描く小牧・長久手の戦い、読者のみなさんはどのようにご覧になったでしょうか。正式には次回の第33回でこの戦いについては「完結」するようですが、メインとなったのは第32回「小牧長久手の激闘」の放送だったと思います。「激闘」というだけに、筆者は激しい戦闘シーンを期待していたのですが……蓋を開けてみると案外、小さくまとまってしまったなと思ってしまいました。また、史書に載っているような内容ではない、「ドラマオリジナル」の展開が目立った印象でしたね。
興味深かったのは、ドラマの後半部分で、長久手地方の戦いで突出した戦果を挙げた酒井忠次(大森南朋さん)と、本多忠勝(山田裕貴さん)・榊原康政(杉野遥亮さん)・井伊直政(板垣李光人さん)たち徳川家の若手幹部たち3人が、「徳川四天王」として紹介されたことです。第32回は、小牧・長久手の戦いという歴史的事件を通して、忠勝、康政、直政といった面々が「四天王」と呼ばれるにふさわしい成長を遂げたことを見せるという趣向だったように感じられました。
しかし個人的には、どのような激戦が繰り広げられたかを、前回のコラムでも紹介した『東照宮御実記』など史書の内容をかいつまみながらでも具体的に映像化したほうが面白かったのではないかと思われましたし、そのほうが山田裕貴さん演じる本多忠勝のような豪気なキャラを描くにはピッタリだった気がします。井伊直政についても同様です。池田恒興(いけだ・つねおき/徳重聡さん)・森長可(もり・ながよし/城田優さん)の連合軍を家康(松本潤さん)が率いる本隊との連携で挟み撃ちにして殲滅するという直政の活躍も、あまりはっきりとは描かれませんでした。もっとも、戦国ドラマの華ともいえる戦闘シーンで忠勝や直政の雄姿をしっかり描いてしまうと、家康に命じられて小牧山城を取り囲む堀を造り直し、秀吉側から見えないよう、味方が出撃するための「抜け道」の準備をした康政の「縁の下の力持ち」の活躍が霞みかねないため、キャラ間の「バランス」が考慮されてああなったのかもしれませんが……。
この小牧・長久手の戦いの決着が描かれるであろう次回・第33回は「裏切り者」というタイトルです。第32回のラストでは、秀吉(ムロツヨシさん)が「家康にゃあ勝たんでも、この戦にゃあ勝てる」と、「総大将」織田信雄(浜野謙太さん)に狙いを定めていることを示唆していました。史実の信雄は、一度は家康に助太刀を頼みながら、自軍が不利となると、家康には無断で秀吉と単独講和を結んでしまっており、第33回ではこのエピソードが描かれることでしょう。これこそが、小牧・長久手の戦いにおいて「秀吉は、戦では家康に負けたが、外交では家康に圧勝した」といわれる所以です。そして秀吉の恐るべき外交技術はその後も家康を大いに苦しめることになりました。多くの「裏切り者」を徳川家中から生んだのです。
「裏切り者」といえば、ドラマでは次回以降、大いに存在感を発揮しそうな真田昌幸も、家康にとっては手痛い裏切り者だったと思います。かつては武田信玄や織田信長に仕えた昌幸は、信長亡き後は家康に臣従しましたが、家康とは以前から領土問題でモメがちでした。そして決定的だったのが、ドラマ第30回でも描かれた「真田の旧領である上野国の沼田を(後)北条家に差し出せ」という家康からの命令です。北条氏直との和睦の条件として沼田領を氏直に譲渡するというもので、ドラマの家康は真田からの反発が起こるのをわかったうえで「恨まれるのは、わしの役目じゃ」とこの話を進めていましたね。実際に、昌幸はこの命令をハネつけ、まだ小牧・長久手の戦いが続いていた天正13年(1585年)7月、徳川家とは折り合いの悪い上杉家と結託します。この「裏切り」にはさすがの家康も激怒し、真田家なんぞ「根切り」にせよ……つまり「皆殺しにしてしまえ!」という厳しい命令を下しました。
一説に3000ほどの徳川家の軍勢が昌幸の上田城を取り囲んだのが、同年8月のことでした。対する真田軍は徳川軍の3分の1もいなかったといいます。こうして勃発したのが「第一次上田合戦」なのですが、上田城はもともと家康の資金援助で造られた難攻不落の要塞でした。ドラマ第33回のあらすじには〈徳川を苦しめる真田昌幸〉とありますが、この部分が描かれることでしょう。
あらすじにはさらに、真田昌幸(佐藤浩市さん)の裏に「秀吉の影」があると書かれており、予告映像には「秀吉、家康……乱世を泳ぐは愉快なものよ」と言っている昌幸の姿もありましたが、この時期、史実の昌幸は交流のなかった秀吉に突然、手紙を書いて保護を願い出ています。秀吉も、自分に敵対姿勢を崩さないままの家康を取り込むための「コマ」として昌幸を使えると思ったらしく、真田家との連携を同年10月、書面で約束しました。
秀吉による「切り崩し」はこれだけに留まりません。小牧・長久手の戦いが織田信雄と秀吉の講和によって収束に向かう際、家康と秀吉との間を取り持ち、両者の間を外交官のように往復してくれていた石川数正まで、秀吉の家康攻略の「コマ」として利用されることになり、数正は家康を裏切って去ったのでした。これこそ家康にとって、もっとも手痛い「裏切り」だったでしょう。(1/2 P2はこちら)
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