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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 石川数正の「裏切り」は秀吉が仕組んだ?
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』石川数正の「裏切り」は秀吉が仕組んだものだった?

数正出奔のキーパーソン、小笠原貞慶の“役割”

『どうする家康』石川数正の「裏切り」は秀吉が仕組んだものだった?の画像2
石川数正(松重豊)| ドラマ公式サイトより

 家康の長年の重臣だった石川数正が出奔したのは、天正13年11月13日のことでした。数正が秀吉のもとに行った理由は史料上、はっきりしていませんが、研究者の間では、数正出奔の約2週間前にあたる10月28日に浜松城で行われた会議が決定的となったとする仮説があります。秀吉は和議の条件として徳川家から人質を出すよう要求しており、この会議では人質を差し出すべきか否かについての議論が行われました。「おそらく石川数正は人質を秀吉に出すべきとの意見を持っていた」(藤井譲治『人物叢書 徳川家康』吉川弘文堂)のですが、しかし「秀吉には臣従しない」と主張する家康と、彼に同調した家臣の多くは人質拒絶派だったため、数正は孤立したという見立てです。数正はこの時すでに自身の子を秀吉に人質として差し出しており、このことも悪く働いて「石川(数正)殿は、秀吉の内通者ではないか!?」という声が家康の家臣団から上がったのかもしれません。

 もっとも、この会議が行われた時点ですでに数正が家康たちを見限るつもりだったのではと考えることができそうな史料もあるようですよ。それは、同年10月17日の日付で秀吉が真田昌幸に送っていた手紙です。それまで特に交流がなかった昌幸が徳川家からの保護を依頼してきたのに対し、秀吉は次のように返信しています。

「委細の段、聞(きこ)し召し届けられ候。其の方進退の儀、何(いず)れの道にも迷惑せざる様に申し付くべく候間(略)、小笠原右近大夫(=小笠原貞慶)と弥(いよいよ)申し断じ、越度なき様」

 意訳すると、「真田昌幸、そなたの訴えについては十分に理解した。そなたの今後については、どういう方向に転がっても困るようなことがないように手配してやるから、今は小笠原貞慶とよくよく相談して、失敗しないように動きなさい」といった感じでしょうか。

 この小笠原貞慶は、石川数正と同時期に徳川家から秀吉のもとに出奔した人物です。貞慶は本能寺の変の後、織田方から徳川方に鞍替えしているのですが、その取次役を担っていたのが石川数正でした。その貞慶が数正と同時期に秀吉のもとへ行ったとなると、すべては秀吉が仕組んだ計画だったのではないか……という疑いも出てきますよね。少なくとも、真田昌幸に手紙を書いた10月17日の時点で、秀吉は小笠原貞慶の「裏切り」を仄めかしているわけで、名前は出ていないものの、この時点で数正もまた家康のもとを離れることを考えていた可能性は考えられます。

 また、この手紙からは秀吉が言外に「徳川軍はもうすぐ退却するであろう」と昌幸に伝えているようにも読める気がします。「越度なき様」という表現がまさにそれで、「失敗しないように」という意味だけでなく、その裏に「今、徳川軍を果敢に攻めたりするような過度な行動はやめておけ」というメッセージも込めているように感じられるのです。

 昌幸は、秀吉の謎めいた言葉の意味をなんとなくは理解できたようですが、具体的に何が起こるのかはわからなかったようですね。結果的に、数正の出奔が家康を動揺させ、真田の上田城を取り囲んでいた徳川軍は一斉に退却してしまったのですが、これに驚いた昌幸は、徳川を共に迎え撃つ約束をしていた上杉家の直江兼続に「なぜ徳川軍が引き返していったのかは、まったくわかりません(要訳)」という手紙を送っています。

 石川数正の出奔は、秀吉から数正と共に逃げてこいという命令を受けた小笠原貞慶によってもたらされた……筆者はそういうストーリーを思い描いています。家康がちょうど強敵・真田昌幸との戦いに気を取られているタイミングだからこそ可能な調略だと秀吉は判断したのかもしれません。

 筆者の考えはこうです。10月28日の浜松城での会議で「秀吉の要望どおり人質を送り、豊臣家と早急に融和すべき」という案を出した数正は、秀吉の内通者だと疑われ、家康や他の家臣たちとの関係が急激に悪化。そこに、徳川家に臣従したばかりで、数正が「教育」を担当していた小笠原貞慶が、(秀吉から吹き込まれたとおりに)「私はやはり徳川を裏切る」などと言い出したことで――あるいは、一説に貞慶が秀吉と内通していることが発覚して――「貞慶の離反を防げなかった自分は連帯責任を問われるだろう」と感じた数正は、やむなく秀吉のもとに行くしかなかったのではないでしょうか。そしてそれはすべて、徳川家を切り崩すために秀吉が仕組んだことだったというわけです。

 ドラマの数正は、第32回冒頭の軍議で「敵はあれだけの兵に食わせるたけでもひと苦労。長引けば秀吉に焦りも出ましょう。さすれば我らに有利なる和議を結ぶことも」と、早いうちから停戦に向けての「落としどころ」を探ろうとしており、若手の家臣団から「弱気」と責められていましたね。ラストシーンでは、数正は家康に対し「秀吉には勝てぬと存じまする」とはっきり断言までしていました。おそらく、このような言動が史実の数正にもあったのでしょう。

 ドラマの家康は「聖人君子」のような空気をまといはじめ、欲望の塊のような秀吉とは対象的な存在になっていますが、史実の家康はこの時期でもまだかなり血の気が多く、それに比べて(表向きだけでも)温和な秀吉の人柄を直接知っている数正は、家康が秀吉を凌ぐ天下人になれるとはとても思えなくなってしまったのかもしれませんね。

 ともあれ、数正の出奔は家康に大きな痛手を与えました。第32回では、徳川軍に手痛い敗北を食らった秀吉が「信長様のせいだわ。徳川をさんざんこき使って、とんでもねえ軍勢を育ててしまった」と徳川軍の強さの理由を語っていましたが、史実では数正こそが徳川家の軍政改革の当事者だったので、そんな彼が秀吉の味方になることは、徳川の重要な軍事情報がすべて筒抜けになることを意味していたからです。一説に、この出奔事件を受けて、武田家の遺臣たちから引き継いだ武田流の軍法を徳川家の主流にするという刷新が行われたそうです。

 豊臣の臣下となった後の石川数正は、秀吉から一文字いただき、名を吉輝と改めました。そして、河内国に8万石を与えられたそうです。後には信州・松本の地に10万石(8万との説も)を与えられ、現在にもその姿を留める松本城の建造を開始しています。ケチな家康に比べ、秀吉は家臣たちに気前よく領地や褒賞を与えることで有名だったので、出奔後の数正は豊かで幸福な生活を送ったようですね。数正は自分が見限った家康が天下人となる姿を見ることなく、文禄2年(1593年)に亡くなったとされていますが、その際の詳細はよくわかりません。10万石の大名の死について、定説がないのは不思議な気がしますが……。『どうする家康』が数正の「裏切り」をどのように描き、その後の人生をどのように伝えるのか(あるいは伝えないのか)、楽しみにしましょう。

<過去記事はコチラ>

堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/08/27 11:00
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