『どうする家康』小牧長久手における榊原康政、井伊直政、本多忠勝ら忠臣の活躍
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秀吉も感服した本多忠勝の胆力
井伊隊が最初に標的にしたのは、武将としての才能がもっともないと考えられた羽柴秀次で、秀次隊がすぐに総崩れになったという知らせを聞いた池田・森隊が引き返してくると、井伊隊は一度は逃げ去るという動きを見せます。しかし、池田・森隊が安心できたのは一瞬で、今度は井伊隊の後ろに位置していた家康率いる本隊が眼の前から現れ、引き返してきた井伊隊との間で挟み撃ちにし、池田・森隊、秀次隊、そして秀次をなんとか守ろうとする堀秀政隊は絶対絶命の危機に陥ったのでした。この家康・直政らによる秀吉軍別働隊襲撃は大成功となり、これにより池田恒興・元助の父子、森長可たちは揃って戦死し、羽柴秀次は堀秀政に守られながらかろうじて生き延びて逃げ去るという無様な負け方となりました。
別働隊が壊滅したとの情報はその日の昼頃になってようやく、犬山城の秀吉の耳に入りました。怒った秀吉は、『東照宮御実紀』(以下、『御実紀』)によると、「家康たちが疲れているところを討ち取れ!」とばかりに8万もの大軍を率いて攻め込もうとしたといいます。しかし、これほどの大軍の進軍には時間がかかり、日暮れ時も近づいてきたので、秀吉たちは小幡城にほど近い龍泉寺川の河原に陣を張ることになりました。
『御実紀』によると、そこにわずかな手勢の本多忠勝が無謀な攻撃を仕掛けたそうです。小牧山城の留守居役だった忠勝ですが、「このままでは殿(=家康)が危ない」と立ち上がり、「忠勝一人でも長久手に馳せ参じ、討ち死にしよう(=私一人でも、討ち死に覚悟で戦う)」といって、他の留守居役の同意を得てわずかな軍勢を率いて出発、長久手方面に走り、秀吉率いる数万もの大軍に龍泉寺川の南方あたりで会敵します。
普通ならば怯むほどの戦力差でしたが、忠勝は「ここで秀吉軍の進軍の邪魔をすれば、殿も軍勢を立て直す時間が少しでも生まれるはずだ」と言って、鉄砲をいかけさせました。秀吉はびっくりして、「あの者を知っているか?」と家来たちに尋ねたところ、稲葉一鉄という武将が「徳川随一の勇士・本田平八です」と答え、それを聞いた秀吉は忠勝の武勇と忠誠心に感激して涙を流しながら「私は彼ら主従(=家康と家臣たち)を最後にはわが味方に引き入れ、家臣にしようと思うので、1本でも矢を射掛けたりするな」と攻撃を制止させたといいます。忠勝は秀吉の意図に気づき、下馬して馬に川の水を飲ませるなど悠々とした態度を見せたので、「秀吉はその(胆力のある)挙動に感心」さえしました(『御実紀』)。
その後、小幡城で家康と忠勝は合流し、家康は忠勝の顔を見て本当に嬉しそうな表情をしたそうです。しかし、秀吉の軍勢が想定以上の規模だったので、この城では守りきれないという判断を下し、夜半、忠勝に殿(しんがり)をあずけて小幡城を脱出した家康たちは小牧山城に帰還しました。そして秀吉は、家康に出し抜かれたことを朝になって知ったそうです。
『御実紀』の記述を要訳すると、この時の秀吉は溜息をつきながら、いかにも感服したという表情を作って、「家康殿こそ日本一の弓取りだ」と認めたのだとか。このとき、秀吉は「そんな名将・家康殿をも、わが家臣にする策はすでにこの胸の中にある!」と、味方の諸将に向かって上機嫌で宣言したという話まであります。さすがにこれは自分の権威をこれ以上落とさないためのハッタリ、虚勢であったとは思われますが、おそらく秀吉なら実際にそのような“演技”を見せたような気はしますし、芝居がかった言動を好むドラマの秀吉がそのようなセリフを言う場面は容易に想像がつきますね。
しかし、夜になったからといって、大軍を率いた秀吉はなぜすぐに小幡城を攻めず、いったん龍泉寺川に留まったのか。あるいは逆に、家康はなぜ小幡城にほど近い龍泉寺川で野営していた秀吉を襲撃しようとしなかったのか……ということを疑問に思う読者も多いでしょう。その理由は、戦国時代特有の外交的な要因があったように筆者は感じます。
家康が秀吉を襲撃しなかった理由については、幕末に成立した『名将言行録』などに「説明」があります。おそらく当時の学者たちが考えた仮説でしょうが、引用してみましょう。『名将言行録』によると、家康は、後にこの日の戦いのことを振り返り、忠勝、直政、康政らと話をしたことがあるそうです。忠勝は「秀吉の野営を夜襲すべきだ」と強く主張していたそうですが、家康は、秀吉軍を攻めさせなかったことには理由があると部下たちに説明しました。要訳すると、「仮に夜襲に成功したとしても、秀吉は討ち逃すことになっただろう。そうすると、大軍を率いていた秀吉が、何分の1にすぎない兵力の徳川に負かされたことを根に持ってしまい、我々を滅亡させることに執心することになるかもしれない。そうなるとお互いに無益だから、夜襲を止めさせたのだ」という理屈です。先述のように『名将言行録』の史料的な信頼性は疑問が残るところですが、小牧・長久手の戦い当時の家康、そして秀吉の本音に近いところに迫った内容のような気がします。
秀吉がすぐに小幡城を攻めなかった理由もまた、優秀な家臣たちに支えられた家康が夜闇に紛れて脱出して取り逃がすことになろうことを見越し、万全を期したと考えられます。戦を最高の外交手段とした日本の戦国時代をこうやって振り返ると、本当に興味深いですね。
なお、榊原康政によって完璧な防御力を備えることになった小牧山城は、小牧・長久手の戦いで直接の戦場になることはなく、さまざまな箇所がよい状態のままで現存しており、江戸時代には徳川家康が運命を切り拓いた場所として神聖視されるようになりました。
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