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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 小牧・長久手の戦いという特殊な戦争
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』関ヶ原を彷彿させる小牧・長久手の戦いで家康が「敗軍の将」となった意味

小牧・長久手の戦いにおける「勝者」と「敗者」

『どうする家康』関ケ原を彷彿させる小牧・長久手の戦いで家康が「敗軍の将」となった意味の画像2
織田信雄(浜野謙太)| ドラマ公式サイトより

 次回のあらすじには〈勢いに乗る秀吉は信長の次男・信雄を安土城から追放、着々と天下人への道を進んでいた。信雄からも助けを求められ、10万を超える秀吉軍と戦う方法を考えあぐねていた家康は、正信の日ノ本全土を巻き込む壮大な作戦を採用〉とありますが、10万(※一説には8万程度だったとも)を超える秀吉軍と戦うために、実際に家康は外交ルートを駆使して、より多くの味方を引き入れようとしました。ドラマではこの「秀吉包囲網」の発案者が本多正信(松山ケンイチさん)という設定になるようですが、実際に正信のアイデアがどの程度反映されていたかは、史料上、明確ではありません。また、家康ばかりが頑張ったのではなく、信雄が持っていた外交ルートに家康が乗っからせてもらった部分もかなり大きいと思われます。

 この戦は、織田信長の後継者としては信雄がふさわしいと考えていた家康(とその配下)と、三法師を擁立した秀吉(とその配下)が軍事衝突したという対立がまず前提としてあります。

 しかし、戦全体の構図はそこまでシンプルではありません。関東方面においては、ドラマでも描かれたように督姫(ドラマでは清乃あさ姫さん演じるおふう)の嫁ぎ先として決定するなど家康との関係性を強めていた小田原の(後)北条家の氏直・氏政父子が、秀吉方の佐竹義重や宇都宮国綱と対立。畿内・西国方面では、長宗我部元親や、紀伊の雑賀衆(さいがしゅう、現在でいう和歌山県あたりの土豪集団)の一部が、秀吉方の黒田孝高(官兵衛)や蜂須賀正勝らと激突しました。さらに北陸方面でも、秀吉との関係を急速に悪化させた佐々成政(さっさ・なりまさ)が家康の味方となり、秀吉に忠誠を誓う上杉景勝や前田利家らと戦うなど、さまざまな地域で家康方と秀吉方に分かれるという、非常に大きな広がりを見せたのです。

 もっとも、すべての地域で戦が実際に行われたわけではなく、戦が断続的に続いた地方と、主に睨みを利かせ合っているだけだった地域とがあり、そのすべてを説明することは難しいので、読者は「日本全土で家康と秀吉は対立したんだなぁ……」と、ざっくり捉えてください。小牧・長久手の戦いは、日本中の多くの地域において、さまざまな勢力が家康軍と秀吉軍の双方に分かれて牽制し合ったり、争い合ったという点で、後の関ヶ原の戦いを彷彿とさせるような特徴があったとも言えます。

 「天下人」織田信長の登場以来、日本全国でそれぞれに小競り合いが繰り返されていた時代は過去のものとなり、それこそ第30回のタイトルのように、「(信長に続く)新たなる覇者」が誰になるのかがこの小牧・長久手の戦いの戦果で決まるだろうというような認識が当時の日本中にあったのだと筆者には思われます。

 興味深いのは、この戦の発端ともいえる存在である信雄の行動です。織田家の後継者の座をわずか3歳の甥の三法師に奪われてしまっただけでなく、秀吉の意向で安土城から退去させられたことにも強い不満に持ち、家康に援軍を要請して戦を始めたとされる信雄自身が、家康にはなんの連絡もせぬまま単独で秀吉との講和を行い、この戦をなし崩し的に終わらせてしまったのです。開戦当初から信雄は自身の領地を秀吉軍から切り取られ放題で、最終的には自軍が秀吉軍に取り囲まれてしまうのですが、秀吉軍に対して自軍が圧倒的に不利になってしまったために戦をやめたくなってしまったのでしょうか。

 『東照宮御実記』は、このような態度を評して信雄を「暗愚」だと決めつけていますが、しかしこの戦においては、単純にどちらが勝った、あるいは負けたという「事実」だけが求められたわけではなかったのでは、と考えることもできます。というのも、戦争のある段階からは、「敗者が勝者にどれくらい迫ることができていたか」を示すことこそが最重要課題となり、それによって戦後の政治において存在感が違ってくることを両陣営が意識するようになっていたように筆者には思われるからです。あるいは、まさに「勝敗そのものよりも、戦後の自分がどういう立場になるか」という点に大きな価値を見いだそうとしていたのが、小牧・長久手の戦いというやや特殊な戦争の「本質」だったのではないでしょうか。

 ドラマでは、北ノ庄城に柴田勝家と共に籠城するお市からの援軍要請に、領土の安定を優先したため応えられなかったことで苦悩する家康の姿が描かれましたが、実際にも家康は、「古参」柴田勝家と「新参」秀吉という、信長亡き後の織田家内の二大勢力の激突に参加してはいません。それゆえ、家康としては今後の自分の政治的な立ち位置のためにも、遠からぬ将来、秀吉と戦うことでおのれの実力を示す必要があると考えていたと思われます。そこに最近の秀吉の増長ぶりに不満を抱く織田信雄からの援軍要請が来たので、秀吉との戦ができる大義名分を得られた家康は、「渡りに船」でそれに応じたのでしょう。そして、家康は秀吉と拮抗する存在であると十分に世間に知らしめるという「成果」を得られたがために、全体として半年以上にも及んだこの戦を続ける意義が家康の中からは失われていき、停戦する理由を探し始めていたタイミングで信雄が勝手に秀吉に降参してくれた……という、これもまた「渡りに船」だったと考えられます。徳川家康の並外れた運の良さを感じてしまいます。

 実際に当時の時点で「10万」もの大勢力である秀吉を滅ぼすことは家康にとっては現実的ではなく、また、史実の家康にはお市に対する特別な感情はないでしょうから、彼女の弔い合戦をする必要もありません。秀吉を徹底的に打ち負かすことはできずとも、自身の存在感をそれなり以上に示せたことをもって戦果十分、停戦してよいと考えたのではないでしょうか。

 このように、信雄の「降伏」によって家康まで「敗軍の将」となってしまったように見えるのですが、本当はかなりうまく立ち振る舞えているような気がします。実際、小牧・長久手の戦いの講和が結ばれた後、勝者であるはずの秀吉が、敗者であるはずの家康のご機嫌取りと思われる行動を繰り返しています。家康はこの戦いにおいて本当の意味での敗者ではなかったと考えられる所以です。

 小牧・長久手の戦いについて思索をめぐらせることは、戦国時代における戦が一体どんなものであったか、その多面性を考えるよい機会になりそうですね。それだけにドラマがどのようにしてこの戦を描くのか、放送が楽しみです。

<過去記事はコチラ>

堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/08/13 11:00
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