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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 柴田勝家と秀吉の対立はいつから?
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』柴田勝家とお市の“悲劇”を生んだ秀吉との対立はいつから?

お市が勝家との年の差婚を決めた背景にやはり秀吉への警戒?

『どうする家康』謎だらけの「本能寺の変」 信長はほとんど本能寺に泊まってなかった?の画像2
柴田勝家(吉原光夫)とお市(北川景子)| ドラマ公式サイトより

 この清須会議で劣勢に追い込まれた勝家が、起死回生策として、お市の方との再婚を進めたという説もありますが、会議の主要な議題の一つがお市と勝家の再婚話であったと考えられる史料もあります。

 創作物の多くは、秀吉がお市に恋慕しており、結婚を申し込んだが断られ、彼女は勝家と再婚してしまった……と描きがちですが、実際は、お市と勝家の再婚は、秀吉の承諾のもとに行われたといいます。

 その根拠となる箇所が、先ほども言及した、柴田勝家が堀秀政に送った書状にあります。この書状には「羽筑(=羽柴筑前守の略、秀吉のこと)との申し合わせの筋目、相違無き事。付けたり、縁辺の儀、弥(いよいよ)其の分に候」という一文が含まれているのです。この「縁辺の儀」以降の部分が具体的に何を指しているのかは不明なのですが、「勝家とお市の再婚話の計画が(秀吉が賛成したこともあり)いよいよ動き出した」と解釈することもできるわけです。

 とはいえ、お市の方と勝家の再婚話について具体的に記された史料はほとんどありません。結婚した時期についてもはっきりわかっておらず、彼女が勝家の領地である越前47万石に赴いたのが天正10年の秋頃だったと推察される程度で、よくわからないことだらけなのです。

 勝家は正確な生年が不詳ではあるものの、再婚時には60代だったと考えられています。当時の年齢感覚ではかなりの高齢者ではありますが、彼は60代でも昼夜ともに現役の男性だったようで、再婚した時点で側室を12人も抱えていました。その一方で、正室はなぜかずっといなかったようです。

 お市はこの時、38歳(あるいは36歳)と考えられています。ずいぶんな年の差婚ですが、一説には、織田信長が生前からお市と勝家の再婚話を推し進めており、彼の死後も遺命としてその計画が遂行されたといいますね。

 天正元年(1573年)の浅井家滅亡、つまり浅井長政の死から約10年もの間、お市は再婚していませんが、信長や家臣たちの本音は、一日も早く彼女が適当な人物と政略結婚してほしいというものだったと思われます。しかし、戦国武将の家の当主、とりわけ信長のような“絶対君主”タイプの人間の「結婚せよ」という意思に対し、その家族の女性たちが逆らうことなどありえないことだと現代の我々は考えてしまいますが、武家の女性の場合、「嫁ぐ、あるいは嫁がない」という意思決定は、女性自身の判断に任せられていたようですから、お市に縁談を持ちかけても首を縦には振らなかった可能性も考えられます。そう考えると、清須会議の後に、30代後半のお市の方が60代の柴田勝家との年の差婚をあえて決断したところからは、やはり織田家を乗っ取ろうというような動きを見せている秀吉に「対抗したい」という彼女の強い意志がうかがえるように思われます。

 しかし、お市と勝家の結婚生活は、半年ほどしか続きませんでした。翌年、つまり天正11年(1583年)4月末には勝家が秀吉に破れ、お市を道連れに自害してしまったからです。

 天正11年4月20日、秀吉と勝家の軍がついに正面衝突しました。最初こそ勝家軍が優勢でしたが、日付が変わった翌21日の深夜2時ごろ、秀吉の奇襲攻撃が大きな成果を上げ、勝家は家族と生き残った家臣たちを連れて北ノ庄城での籠城に追い込まれました。この城は難攻不落だと謳われていましたが、秀吉軍の猛攻は防ぎ難く、早くも24日の午後には死を覚悟した勝家と家臣たち、そして女たちが一堂に会し、最後の酒宴を開くことになってしまいました。

 勝家は、お市に娘たちを連れ、秀吉に投降するように勧めました。戦国大名の正室が敗戦の将となった夫と共に自害するケースは、この時点では稀だったのです。しかし、お市は勝家の案を拒否し、娘たちだけが秀吉のもとに送られることになりました。その中には成長後、秀吉の一番の側室、もしくは二番目の正室とも呼べる「淀殿」となった茶々も含まれていたのですが、茶々やその妹たちの数奇な運命については機会があればお話ししましょう。

 翌25日早朝、お市は「さらぬだに うちぬるほども 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな」(意訳:そうでなくとも、もう眠りにつく時間なのに、ホトトギスが鳴いています。私たちを永遠の夢路に誘うように……)という辞世の歌を遺し、勝家も「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ やまほととぎす」(意訳:夏の夜の夢ははかないものだな。私たち夫婦の死後の名声を、山のホトトギスよ、雲よりも高いところまで押しあげておくれ)と詠みました。

 柴田勝家という人物は、創作物の類いではむさくるしい武人のように描かれることが多いのですが、名門・斯波家の血を引くという説もあり、この辞世の句のクオリティから推察するに、文武両道で女性には非常にモテたと思われますね。

 勝家とお市の辞世が後世に伝わったのは、勝家側近の中でたった一人、生き残ることを命じられた「老女(=重鎮格の女房)」の証言あってのことです。この老女によると勝家は、正座して両手を合わせたお市をわが胸に抱くようにして彼女の心臓を短刀で刺して生命を奪い、その後、一気に12人の側室たちと30人の女房たちを刺殺。そしてお市の遺骸の前に戻り、自分の腹を十文字にかっさばいて絶命したとのこと。この30人の女房たちというのも、勝家の愛人的な存在だったような気はしますね。

 80人ほどいた家臣たちも、全員が切腹もしくはお互いに刺し違えて絶命していき、25日の午後の時点で北ノ庄城が炎上し、勝家の一族は全滅したことが秀吉に伝わりました。すでに娘たち3人の身柄を引き受けていた秀吉ですが、最後までお市の方が投降してこなかったことには大きなショックを受けたのではないでしょうか。

 落城時に夫と自害することを選択したお市の壮絶な死に様は、その後、多くの戦国の女たちの死のスタンダードとなったそうです。『どうする家康』のお市は、おそらく「勝家の妻」というより、「信長の妹」として、もっというと「女戦国武将」のひとりとして毅然として死を選ぶような気がします。

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堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/08/06 11:00
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