『どうする家康』謎だらけの「本能寺の変」 信長はほとんど本能寺に泊まってなかった?
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本能寺の変で本能寺は全焼していない?
日承が亡くなった翌年、つまり天正8年(1580年)、信長は京都所司代の村井貞勝に命じて本能寺の改造を開始しました。この当時の本能寺は敷地が正方形で、その四辺はそれぞれ120メートルもあって、当時の言葉で「一町」ぶんもの広さがすでにありました。信長はそこに、幅2~4メートル、深さ1メートルの堀をめぐらせた上に80センチの石垣の土台を設け、その上に3~5メートルの土塀をめぐらせるという城塞化のような工事を行わせ、天正10年6月の本能寺の変の時点でほぼ完成していたそうです。
寺の敷地内には、さらに塀で囲まれた宿泊用の「御成(おなり)御殿」を造らせており、信長が本能寺に泊まった2回(天正9年2月と、本能寺の変の際)は、この区画に信長一行が泊まっていたと考えられています。
しかし、御殿自体はそれほど大きい建物ではありませんでした。信長が100人程度のお供しか連れていなかったのは、ドラマのように「オレを殺せるものなら殺してみろ」と煽った意味はもちろんなく、ただ単純に施設の収容キャパシティの問題だったのでしょう。この時の信長のお供の数に定説はなく、少ないもので御小姓などの近習が数十人と、その他わずかの召使いたちだけがいたとする説がありますが、多くても御馬廻衆など入れて170人ほどだったとされているので、かなりの少人数だったことがわかります。
「御殿」という名の建物が建設されているからには、そこにメイドに相当する女房たちも常駐していておかしくはないので、信長は上述のような少人数のお供を連れていれば十分ということだったのでしょう。こうした少人数での本能寺での宿泊は信長が油断していたから……とする説はよく目にしますが、御殿のキャパシティを考慮していないがゆえに生じる読み違いであろうと思われます。
ところで信長は、長らく本能寺の宿泊が受け入れられなかったペナルティとして「寺の坊さんたちにはずっと出ていってもらう」という厳しい条件を突きつけており、もともといた僧侶たちは、信長の滞在していない時ですら追い出されることになったそうです。数ある本能寺の変の記録において僧侶たちがほとんど登場しないのは、信長のこの命令によるものなのです。
『信長公記』における信長の最期は、信長が本能寺にいた「女ども」……つまり女房たちに事態を聞いて、寝ていた御殿から寺の本堂あたりまでわざわざ出向き、弓矢をとって明智勢と闘ったあげく「是非に及ばず」といって自害したというふうに描かれているわけですが、信長が最期にド派手な大立ち回りをしたとするこの記述のどこまでが真実であるかはわかりません。
信長の旧臣で『信長公記』の著者である太田牛一はいわば信長の「大ファン」ですから、本能寺の変の際に自身が京都に居合わせていなかったからといって、敬愛する信長の最期について適当な創作でごまかすような真似をするものかな、という疑問は筆者には残ります。
もちろん、太田が『信長公記』に書き記したことすべてが真実とは考えにくいのは確かです。
明智勢が1万~2万ほどの大軍で本能寺を取り囲んだという記述が、同書だけでなく多くの史料に見られるのですが、これは盛りすぎた数字だと思われるからです。この当時の本能寺の変を取り囲む道路の幅は広くて5間(9.1メートル)、狭くて3間(5.4メートル)程度だということは判明しているので、騎馬隊を含む1万~2万ともいわれる明智の大軍が、幅狭な道路に入り込み、寺を取り囲むようなことは難しいでしょう。
また、本能寺は全焼したという説が『信長公記』などに見られますが、寺の周囲は下京の一般住宅ですから、四辺がそれぞれ120メートルもある巨大寺院が全焼すると、大規模な類焼が起こるはずです。しかし、そういった記録は見当たらず、大規模な火事の痕跡は見られないという跡地の調査結果と合わせて考えると、本能寺全焼の記述も疑わしいといえます。もっとも、現在の本能寺は、天正19年(1591年)に豊臣秀吉の命により、現在の中京区下本能寺前町に敷地を移動・再建されたものであり、全焼していないのだとしたら、なぜ秀吉がそのようにしたかは謎です。いわくつきの本能寺などは壊してしまって、本能寺自体も、寺という名前がついているだけの宿泊施設ではなく、僧侶がいる普通の寺としてちゃんと再開させてやろうという秀吉の判断だったのかもしれませんが、本当のところの事情は不明です。
日本史上、誰もが知る大事件にもかかわらず、本能寺の変について多くのことがいまだミステリーのままなのは興味深いところです。第27回のラストのシーンでは本能寺は炎に包まれていたようですが、本能寺の変そのものをドラマではどのように描くのでしょうか。
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