トップページへ
日刊サイゾー|エンタメ・お笑い・ドラマ・社会の最新ニュース
  • facebook
  • x
  • feed
日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 穴山梅雪と家康の関係
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』瀬名に急接近する唐人医師の正体は武田軍の穴山梅雪?

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』瀬名に急接近する唐人医師の正体は武田軍の穴山梅雪?の画像1
穴山梅雪(田辺誠一)| ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』第22回では、武田の騎馬軍が織田の鉄砲隊の前に惨敗した設楽原の戦いの後、徳川家康(松本潤さん)は信長(岡田准一さん)に臣従せざるをえなくなったという展開となりました。これは平たくいえばドラマにおけるオリジナル設定ですが、『どうする家康』は、家康が主君・信長の命令に逆らいきれず、断腸の思いで正室・瀬名(有村架純さん)と嫡男・松平信康(細田佳央太さん)の2人を粛清せざるをえなくなる……という筋書きになると思われ、その伏線になると考えられます。

 第22回では信康の異常も見られ始めました。昔は虫さえ殺せなかった優しい信康が、設楽原の戦い、そして二俣城の戦いに相次いで参戦した後、夜もまともに眠れず、不安定な様子であることに瀬名は気づき、心配そうでした。信康の母として瀬名が独自に行動し、問題解決を図ろうとしたことが、次回・第23回の「瀬名、覚醒」のメインの内容になるのではないか……と推測されるのですが、今後のドラマの展開に影響する他の事件もいろいろと並列して発生しそうです。本連載のテーマ選びについても迷いましたが、今回は、多くの読者に武田本家の重臣として認識されているであろう穴山梅雪のお話をすることにします。

 ドラマの公式サイトでは、田辺誠一さん演じる穴山梅雪(本名・穴山信君、のぶただ)は〈武田氏の一門・穴山家の当主。信玄からの信頼厚く、抜群の知略を生かし、外交戦略のエキスパートとして活躍。武田軍の駿河侵攻においては、先兵として今川家の切り崩しを行い、のちに徳川家や織田家と対峙することになる〉と紹介されていますが、実は〈徳川家や織田家と対峙することになる〉という部分には重要な「続き」があります。それは、梅雪が武田勝頼を裏切り、信長と密通し、後には家康の家臣にもなったという事実です。

 梅雪の母親は、武田信玄の父・信虎の娘(詳細不明)ですから、信玄と梅雪は従兄弟同士です。さらに梅雪は武田本家との血縁を強めるため、信玄の娘(詳細不明)とも結婚しています。このように武田本家への帰属意識が非常に高かった梅雪ですが、『甲陽軍鑑』によると、天正9年(1581年)ごろに勝頼を見限ることになってしまいます。同書には、天正3年(1575年)の長篠・設楽原の戦いにおいてすでに梅雪が勝頼の命令を無視し、まともに戦おうとはしなかったというエピソードが登場しています。さすがにそれは創作だとしても、両者の不和・反目はすでにそのころから見られていたと考えることもできるでしょう。

 ドラマの梅雪は、設楽原の戦いで二度にもわたって勝頼(眞栄田郷敦さん)に退却を進言したにもかかわらず無視されてしまい、若き当主・勝頼を見守るしかありませんでした。梅雪から勝頼への最初の忠告は、酒井忠次(大森南朋さん)らの兵によって鳶ヶ巣山の砦が狙われていると判明した時点でした。梅雪は「織田軍の鉄砲の数は1000を超える」と具体的な理由を挙げながら、「(兵を)引くよりほかないかと。後ろを断たれる前に」と勝頼に進言しています。しかし、勝頼は彼の言葉を聞き入れなかったようです。さらに鳶ヶ巣山が落ちたという報告の際にも、梅雪は「引き揚げのお下知を! 急がねば逃げ道を塞がれます」と退却を進言しましたが、「父・信玄を超えたい」という一念に囚われた勝頼は、あろうことか「目の前に信長と家康が首を並べておる。このような舞台はもう二度とないぞ!」「戦場に死して名を残したい者には今日よりふさわしき日はない!」などと兵を鼓舞、信長の鉄砲隊との正面対決に挑んだのでした。しかしその結果は惨憺たるもので、織田軍鉄砲隊の総攻撃によって武田の騎馬隊は撃滅されてしまったのです。

 ここで少々脱線しますが、ドラマでは、騎馬隊をはじめとした武田軍が接近してきた際、織田の鉄砲隊は、軍用火縄銃の用意ができた者から次々に柵の隙間から敵を狙って撃っており、興味深い演出でした。いわゆる「三段撃ち」という言葉から、われわれがイメージするのは、部隊を3つに分けた上で、隊ごとに射撃しては下がって次の砲撃の準備をし、順番を待つという運用です。しかし、ドラマではこの運用方法は、武田の騎馬隊を十分な距離までに引きつけて最初の一撃を放った時だけ行われたようで、以降は「準備のできた者から次々放て」との指示が下っていました。

 当時の鉄砲=火縄銃には50メートル程度しか有効射程がありません。さらに、火縄銃は弾の装填だけでなく火薬の準備など手間がかかるため、一度砲撃してから次の砲撃までには熟練の射手でも数十秒以上の時間がかかり、一度に多くの鉄砲を射つことにこだわりすぎると、武田の騎馬隊(の生き残り)が防御柵まで到達してしまい、鉄砲隊は柵ごと押しつぶされてしまったでしょう。しかし、2021年放送の『歴史探偵』(NHK総合)では、湯浅大司さん(新城市設楽原歴史資料館館長)の協力のもと、火縄銃の運用方法の検証がなされており、火縄の準備ができた者から交代で鉄砲を撃ちまくるという(ドラマ劇中にもあった)方法なら、3秒間隔での連続射撃が可能だったそうです。武田の騎馬隊目線から鉄砲隊への突撃の様子をCGで再現していましたが、「突撃は困難」と紹介されていたように、武田軍がすさまじい鉄砲の雨を浴びせられていたことがわかります。あの集中砲火の中を生き残れるとはとても思えません。

 「3千丁の鉄砲で、武田兵を三段撃ちで迎えた」という逸話の初出は、江戸時代初期に書かれた小瀬甫庵の歴史小説『信長記』です。そして、ここに見られる「三千丁を千丁ずつ、立ち代わり立ち代わり撃たせる」という原文の記述を、後世の我々が便宜上「三段撃ち」と呼んでいるだけなのですね。ですから、ドラマにも出てきたような、準備できた者から撃っていくという方法こそ、本当は『信長記』の原文の記述や、史実に近いといえるのかもしれません。

 『甲陽軍鑑』ではまともに戦わなかったとされる穴山梅雪の兵たちについてですが、史実では先発隊ではなく、後方に配置されていたようです。ゆえに鉄砲の雨を浴びたところで、火縄銃の有効射程圏を大きく外れる100メートルを超えた地点にいる梅雪隊に実害は少なく、当然、死者もあまり多くはなかったと考えられます。しかし、自軍に犠牲は少なくとも、無茶な突撃命令によって多くの人命を犠牲にした勝頼に対する梅雪の失望は大きかったのでしょう。先ほど述べたように、後に梅雪は勝頼を裏切ることになります。(1/2 P2はこちら

12
ページ上部へ戻る

配給映画