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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 「長篠の戦い」武田軍の敗因は勝頼の性格?
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』長篠の戦いの武田軍の惨敗は勝頼の判断ミスが引き起こした?

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』長篠の戦いの武田軍の惨敗は勝頼の判断ミスが引き起こした?の画像1
織田信長(岡田准一)| ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』第21回は、岡崎体育さんが熱演した鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)が、ある時は走り、ある時は歌い、最後には磔にされてしまうという大活躍(?)を見せ、ネットの話題をさらいました。しかし、第21回のMVPといえば、織田信長を怪演した岡田准一さんでしょうか。

 先週のコラムでは、家康(松本潤さん)からの援軍要請に応じ、大軍を率いて岡崎にやってきた信長が〈参戦の条件として家康に驚くべき条件を提示〉してくる部分について推察し、「酒井忠次(大森南朋さん)を家臣としてくれ」などと言い出すのではないかというお話しをしていました。しかし蓋を開ければ、忠次どころか、家康含む全員に「助けてほしければ、オレの家臣になれ」と脅迫しており、「驚くべき条件」どころの話ではありませんでしたね。

 このように『どうする家康』の信長は、近年稀に見るレベルのパワハラ系「オレ様キャラ」なのですが、岡田さんの堂々たる立ち居振る舞いには気品すら感じられ、1人の視聴者として完全に「信長節」に丸め込まれ、あまり嫌な気分にはならないのが不思議です。近年の大河ドラマでは、『麒麟がくる』において染谷将太さんが自意識を肥大化させて「怪物」になっていく信長を好演し、その鬼気迫る「奇怪さ」(※褒めています)には定評がありましたが、岡田さんの信長はギリギリのところで「カッコよさ」の範疇に踏みとどまっている気がしています。

 ドラマ第21回の内容について蛇足ながら史実の観点で補足しておくと、亀姫(當真あみさん)が長篠への輿入れを嫌がったり、「設楽原の戦い」の前に織田・徳川間の「清洲同盟」が解消される危機にあったりという展開はドラマオリジナルで、史料からはそのような事実は確認されません。清洲同盟は、本能寺の変で信長が亡くなるまで末永く続いた、戦国でも稀な同盟でしたから。しかし、信長と家康は対等な存在と取り決めされていたにもかかわらず、次第に信長の家臣のような扱いを家康が受けるようになっていったのは史実も同様です。

 さて、次回・第22回は「設楽原の戦い」と銘打たれているとおり、徳川・織田連合軍(2~3万)と武田軍(1万)の正面衝突が描かれるはずです。

 この戦いにおいてもっとも注目されがちなのは、信長が当時としては桁外れな3000丁もの鉄砲を(一説に)3万の兵に携えさせ、突進してくる武田の騎馬隊を討ち滅したとする場面です。次回予告の映像でも、松平信康(細田佳央太さん)が「これが……戦にございますか?」と驚愕するセリフが聞こえてきますが、「新兵器」鉄砲の圧倒的な威力と、それを使いこなす信長の恐ろしさが描かれるのでしょう。

 次回のあらすじには〈信長は馬防柵を作るばかりで動こうとしない。(中略)勝頼は攻めかかってくるが、信長はその瞬間を待っていた。3000丁の鉄砲が火を噴く!〉とあり、武田の騎馬隊を信長の鉄砲隊が迎え撃つことになりそうですが、勝頼率いる武田軍が鉄砲など新兵器を軽んじ、「昔ながら」の騎馬隊に固執していたという事実はなく、信玄の時代から鉄砲なども積極的に導入しようとしていたことは有名です。ただ、甲斐国(現在の山梨県)の地理的条件が邪魔し、信玄や勝頼は、信長のようには多くの鉄砲を手に入れることができませんでした。

 なお、信頼できる史料とされる『信長公記』や『三河物語』などには、信長が使用した鉄砲の数は明示されておらず、有名な「三段撃ち」についても言及がありません。江戸時代に入って、先行する史料をもとに書かれた小瀬甫庵の歴史小説『信長記』などに、三千丁の鉄砲を三段撃ちで運用したという「設定」が初めて登場しており、これが明治後期の日本の軍部によってまとめられた書籍で紹介されたことで、急速に一般化した説のようですね。

 信長が鉄砲隊を活用し、それまでの戦術を変えた戦いとして名高い設楽原の戦い(長篠の戦い)ですが、史実の観点から考察すると、この信長の戦術以上に興味深いところがあります。それは、決戦に至るまでに武田勝頼が数々の「判断ミス」を連発したと考えられる点です。

 ドラマでは、父・信玄譲りの智将として描かれている勝頼ですが、史実においても織田信長や上杉謙信から一目置かれる若き実力派でした。特に信長は勝頼の戦い方を熱心に研究したことで知られ、当初は侮っていたものの、次第に彼を高く評価するようになっていきました。しかし、勝頼はそれだけの実力派であったにもかかわらず、設楽原の戦いにおいては、なぜか多くのミスを犯してしまっています。

 史実の勝頼には、信玄や武田家の重臣たちの目からすると大将としての器にふさわしくない軽率さが見られたとされます。

 勝頼は17歳で初陣を飾り、勇猛果敢さで知られました。しかし、それは無鉄砲さと紙一重の勇ましさであり、自ら槍を振るって奮戦する勝頼について、信玄が「礼式四郎(=勝頼)(略)無紋に城に攻め上り候、まことに恐怖候」……勝頼はいつものように何の作戦もなく勢いだけで敵の城に乗り込んでいったのでヒヤヒヤさせられた、とぼやいた書状を残しているのが注目されます。

 そのような性格ですから、父を失い、28歳の若さで武田家当主の座を継いでからも、大将であるにもかかわらず、江戸時代の軍記物語に描かれているように、いざとなれば槍を振るって本当に前線に立った可能性もあったと思われます。信玄のライバルの謙信もまさに最前線に立ちたがる軍人タイプだったことで知られていますから、それだけで「大将の器ではない」とはいえないのですが、デンと構えていられないタイプの大将は、家臣たちにとってみれば、尊敬の対象というよりも、むしろ厄介な困り者といったような存在だったのではないでしょうか。戦死でもされたら、家の存続問題に関わりますから。(1/2 P2はこちら

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