『どうする家康』家康の“お手付き”になる侍女・お万が登場! 瀬名とのトラブルはどう描かれる?
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『どうする家康』第18回は、家康(松本潤さん)の身代わりになった夏目広次(甲本雅裕さん)の犠牲心と献身性を中心に、三方ヶ原において武田軍に討ち取られてしまった徳川軍の壮絶な敗走が描かれました。しかし、「お腹が弱い」といった設定が幾度となく登場していたにもかかわらず、有名な家康の脱糞エピソードは残念ながら(?)映像化されませんでしたね。家康が命からがら浜松城に帰還したシーン自体が省略されていたので、今後、回想シーン、もしくは誰かのセリフで、「あの時の殿は糞を漏らしとった」と触れられる形になるのかもしれませんが……。
次回・第19回は「お手付きしてどうする!」というタイトルなので、この時期、家康と急速に親密になった於万の方――ドラマでは松井玲奈さん演じるお万との熱愛がクローズアップされるようです。
予告動画によると、家康の湯浴みをお万が手伝う場面や、酒井忠次(大森南朋さん)や石川数正(松重豊さん)らが恐らく家康に「信長が敵を蹴散らしている時に」「何を考えておられるんじゃ~!」と説教している場面が出てきたので、番組のあらすじどおり、「信玄との激戦で大きな犠牲を払ったショックから、立ち直れないでいた」家康が、「美しい侍女のお万に介抱され、つい心を許してしまう」エピソードが、信玄の死とその後の政治的な変化よりも重点的に描かれるのでしょう。
史実の於万こと於万の方は、天文17年(1548年/前年生まれという説もあり)、永見貞英と刈谷の水野忠政の女(むすめ)との間に生まれたと考えられます。つまり、於万と家康は母方の親戚同士という関係です(於万の母は、家康の母である於大の方の妹にあたる)。於万については、その出自を大坂の町医者・村田意竹の娘とし、ある男性と離婚した後に縁あって築山殿に仕えることになったとする説もありますが、こちらは後世に成立する家康の後家好みに合わせた創作でしょう。
NHK公式サイトによればドラマのお万は「池鯉鮒(ちりゅう)神社神主の娘」(=永見貞英の娘)で、「戦災を逃れ、瀬名仕えの侍女となり、やがて浜松城で暮らす家康のそばに仕える」と説明されています。史料で見るかぎり、実際に於万は岡崎城で家康と別居していた時期の築山殿(瀬名)に仕える侍女でした。
史実の家康は、自らは浜松城で暮らし、正室の築山殿や長男・信康らは浜松城から離れた岡崎城に住まわせ、時々対面しに行くだけだったようですね。家康をはじめ、歴代将軍の正室・側室など女性関係について記した『以貴小伝』『幕府祚胤伝』などの史料には家康と於万の方のなれそめについて具体的な記述はありませんが、当初は築山殿や信康と定期的に顔を合わせるため義務的に岡崎城に行っていただけの家康が、築山殿の侍女に於万の方という魅力的な女性がいることを知り、恐らく親戚のよしみもあって個人的に交流するうち、いつしか築山殿の目を盗んで男女の関係になっていったのではないかと推察されます。
築山殿は、於万の方が家康の子を宿していることを知ると、「於万は夫の側室として認められない」という意思を明確にしました。正室が関係を公認しないかぎり、当主の男性は側室を持つことが許されないのが当時の習わしです。於万は築山殿の侍女の職を解かれ、岡崎城からも追放されてしまったのですが、こうした築山殿の反応からは、家康と於万が男女の関係になっていることに、於万が懐妊するまで築山殿はまったく気づかなかったのかもしれない、と思わせられます。
この時期の有名な逸話ですが、家康と親密になり、彼の子を妊娠するという於万の方の“裏切り”に怒りを抑えられない築山殿が、「ある夜、おまん殿をあかはだか(=赤裸)にして縄もていましめ、浜松の城の木深き所にすてさせられし」ことがあったそうです。この文章は、信憑性が高い史料とされることの多い『以貴小伝』からの引用ですが、於万が妊婦であるにもかかわらず、裸にして縄で縛り、浜松城内の木が生い茂っているところに放置した(もしくは、折檻も加えた)という逸話の真否はともかく、築山殿と於万の方の関係が一気に悪化したことは真実であろうと思われます。
この日、城で宿直役をしていた本多(作左衛門)重次がどこかから聞こえてくる女の泣き声を聞きつけ、縛られた於万の方を発見し、自邸に連れ帰って命を救いました。その後、家康に事件を報告すると、「そのまま於万の面倒を見るように」という主命が下りましたが、築山殿の怒りは冷めず、そのまま於万は「城外有富村といふ所にて御子をうめり。これすなはち於義丸殿にておはす」(『以貴小伝』)と、於義丸(=後の結城秀康)を城外で出産することになりました。於万の方が出産した場所は、本多重次に紹介された浜松城にほど近い宇布見の代官・中村家の屋敷だったともいわれています。
『柳営婦女伝系』などには、このとき於万が出産したのは双子であり、その1人が於義丸で、もう1人の男子はその場で亡くなってしまったとの記述もあります。双子は当時、「畜生腹」と呼ばれ、忌み嫌われたと説明されがちですが、実は歴史的な裏付けが薄い説だったりします。男の双子は後々の相続関係が複雑になりうるといった問題が生まれるので、片方は養子に出されたり、ひどい場合は殺されることもあったようですが、於万の方の双子も当時の慣習に従い、於義丸の弟は公には亡くなったことにして別の場所で育てられたと考えられ、それが後の永見貞愛(さだちか)という人物だとみられています。
兄の於義丸は本多重次が武家の若君として養育し、後に結城秀康を名乗ることになります。弟は貞愛という名を与えられ、於万の方の実家であり、三河・池鯉鮒の知立神社の神官を務めた永見家の養子として育ちました。双子でありながら、数奇な運命をたどって別々に育ち、兄は武将、弟は神官になった二人ですが、慶長2年(1597年)には、兄から弟に二千俵もの蔵米が送られた記録も残っており、交流はあったようです。
しかし理解しづらいのは、於万の出産に関して家康が関心を寄せた形跡がまったく存在しないことです。養子に出された貞愛はもちろんのこと、本多重次が当初養育し、後に異母兄・信康から庇護を受けるようになった“実子”の於義丸にも、彼が3歳になるまで、家康はまともに対面しなかったという説があります。おまけに於義丸には、赤子のときの顔を見て家康が付けた「於義伊(おぎい)」という名もありました。ギギと呼ばれるナマズ目の淡水魚のような顔だというのが由来で、こういうエピソードがあることからも、家康が於義丸にまったく会わなかったとは考えにくいですが、一方で愛情はまったく感じられません。つまり、於万の方や於義丸は、家康から冷遇されていたと考えるのが自然でしょう。(1/2 P2はこちら)
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