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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』夏目広次の身代わり、空城の計、脱糞…“伝説”ばかりの三方ヶ原の敗走劇

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』夏目広次の身代わり、空城の計、脱糞…“伝説”ばかりの三方ヶ原の敗走劇の画像1
徳川家康(松本潤)| ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』第17回は、決死の覚悟で武田軍との戦いに臨む徳川家康(松本潤さん)とその家臣、そしてその家族たちの姿が描かれました。戦闘シーンはありませんでしたが、両軍の戦いぶりを自身の眼で見ようとした井伊直政(板垣李光人さん)が、徳川軍の死者の山や、家康の金陀美具足を身に着けた遺体が武田兵に運ばれていくのを目撃する様子は描かれました。徳川軍があっという間に大敗し、武田軍の圧倒的な強さが浮き彫りにされるよい演出だったと思います。

 史実においても、午後4時ごろに戦闘が開始されたにもかかわらず、午後7時くらいには勝敗が完全に決していたそうで、3万以上という兵力の武田軍に対し、徳川軍はその半分以下の1万1千程度しかおらず(そのうち3000が信長からの援軍)、完全に力負けだったという印象があります。徳川・織田の連合軍は少なく見積もって約300名、多く見積もれば全軍の1割程度=1000人前後の兵を失う惨敗でした。

 三方ヶ原の戦いにおいては、兵力で圧倒的に勝っていた武田軍が、部隊を魚のウロコのように並べて配置し、敵陣の正面突破を狙うときに適した「魚鱗の陣」を取り、そこに兵力で負けている徳川軍が、鶴が翼を広げるように部隊を左右に薄く展開し、最終的には敵軍を包み込んで殲滅する「鶴翼の陣」で激突していったことが知られています。ドラマでも、魚鱗の陣を敷いた武田軍がちらっと映っていましたね。

 しかしこの陣形、本来なら逆になるはずなんですね。数で大幅に負けている徳川軍が多勢の武田軍を包みこ込ことなど不可能で、なぜ家康がこれほどの兵力差で鶴翼の陣を採用してしまったのかは、史料を見ている限り説明がつきません。あえて鶴翼の陣を取ることで、かなりの兵数がいるように見せかけようとした……とも考えられますが、その効果はあまりに一瞬でしょうから意味があるように思えません。逆に武田軍も、数の優位性を考えれば、魚鱗の陣ではなく鶴翼の陣を取るのが定石と思われますが、そうはなりませんでした。

 徳川幕府の公式史である『東照宮御実記(以下、御実紀)』には、「神君」家康の人生において最悪最低の経験になった三方ヶ原での敗戦について、かなりボカした曖昧な記述しか残っておらず、どのような経緯で家康と家臣たちが浜松城を出て、三方ヶ原で武田軍と激突することになったのかも記されていません。

 ドラマでは、家康たちが籠城中の浜松城を武田軍がスルーし、出陣した家康たちを三方ヶ原で待ち構えていたという展開でした。武田軍が浜松城を通り過ぎたという記録があるのは、江戸時代初期に成立した歴史物語の『三河物語』などで、同書によると、信玄に無視されたと怒り、城を出て戦うと言い出した家康を家臣たちは説得しきれず、「戦の勝ち負けは、兵の数ではなく、天が決めることだ」という家康の言葉に従い、三方ヶ原を通行中の武田軍を背後から討つ作戦になったとされています。このあたりはドラマとほぼ同じですね。『松平記』でも、「眼の前の敵をおめおめと逃すのは悔しい」と、家康が慎重派の家臣たちに訴える場面が出てきます。

 これはあくまで筆者の推測ですが、家康と家臣たちが打って出るか出ないかで白熱の激論を交わしているうちに時間が経過し、「今から武田軍を追いかけたら、ちょうど彼らが三方ヶ原を通り過ぎ、下り坂に差し掛かるタイミングで追いつくはず。それならば地の利を活かせるのでは?」という者が出てきたことで、主戦派の家康に同調する家臣たちが増え、慎重派が押し切られる形で、浜松城からの出陣が決まったのだと思われます。そして、兵力で武田軍の半分以下しかない徳川軍にとって、武田軍が狭い下り坂まで来たところを狙って襲いかかり、背後から鶴翼の陣で包み込んで叩けば、勝ち目はあるかもしれない……その程度のずさんな計画しか立てようもなかったのでしょう。それだけ家康が信玄に追い込まれていたとも言えそうです。

 しかし、武田信玄は『御実紀』でも強調されているように兵法の達人です。家康がそうした策で打って出ることを見越していたからこそ、浜松城をスルーしてみせ、三方ヶ原台地の端で彼らを待ち受けたのでしょう。

 本来ならば人数に劣る側が取る魚鱗の陣を武田軍が選んだのは、徳川方を煽るためだったのかもしれません。徳川軍からすれば、作戦が見抜かれたのは衝撃でしょうし、さらに定石でない陣形という“煽り”が加われば、侮辱されていると感じ、武田軍に対して慎重派だった家臣たちも含めて皆、頭に血が上ってしまったことでしょう。その結果、坂道で予定していたはずの鶴翼の陣を台地の上でそのまま展開してしまい、武田軍に突っ込んでいってしまったのではないでしょうか。

 『三河物語』の記述によると、徳川軍は想定以上の強さを見せ、武田の本陣まで迫る勢いもあったといいますから、“煽られた”ことで思わぬ奮闘をしたのかもしれません。しかし、結局は多勢に無勢という言葉通り、数に勝る武田軍が盛り返し、徳川軍の逆転はありませんでした。

 ドラマでは三方ヶ原で徳川軍を待ち受けた信玄(阿部寛さん)が「勝者はまず勝ちて、しかる後に戦いを求め、敗者はまず戦いて、しかる後に勝ちを求む」と『孫子』を引用した勝利宣言を行い、信玄の圧倒的な格上ぶりが感じられる演出になっていました。この時、史実では家康は数え年で32歳だったのに対し、信玄は52歳です。約20年の年齢差はそのまま、武将としての格の違いにつながっていたことでしょう。(1/2 P2はこちら

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