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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』謎多き“カリスマ”信玄の実像と、武田軍はいかに「化け物」となったか

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』謎多き“カリスマ”信玄の実像と、武田軍はいかに「化け物」となったかの画像1
武田信玄(阿部寛)| ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』第16回は、阿部寛さん演じる武田信玄の醸し出す大物感もあって、決戦が始まる前から徳川軍がボロ負けする空気しか感じられない終わり方をしました。

 武田の情報網は各地に張り巡らされており、家康(松本潤さん)が上杉謙信への密書を持たせた使者は武田の歩き巫女に粛清され、服部半蔵(山田孝之さん)一味による人質・源三郎(長尾謙杜さん)の奪還作戦も完全に筒抜け。信玄は源三郎の帰国を黙認する代わり、「弱き主君は害悪なり。滅ぶが民のためなり。生き延びたければ我が家臣となれ。手を差し伸べるは、一度だけぞ」と家康への伝言を言い含め、すべてにおいて武田が徳川の上をいっているという事実を突きつけてきました。

 史実の家康も、信玄の兵法を高く評価していたとされます。しかし、信玄という人物についてはどのように捉えていたのでしょうか。歴代大河ドラマにも頻出の人物でありながら、武田信玄の人物像を後世に伝える一次史料は、実はほとんど残されていません。

 現存する信玄自筆の書状50通のうち、私信はゼロ。京都から公家を招いて詩歌や連歌の会を催した記録があり、信玄自身も相当な文化人であったのは間違いないものの、彼が嗜んだ和歌や漢詩は定形表現が重視されるジャンルで、残念ながら彼自身の心の内を表現していたとはいえないのです。「人は城、人は石垣……」(意訳すれば、「民心と生活の安定こそが武将にとって最大の守り」)などのフレーズで有名な信玄の歌も江戸時代になって創作されたもので、彼の真作ではありません。しかしこのような創作がなされるということは、ドラマでも描かれているとおり、民から慕われるだけの強い魅力を持つ人物であったことが想像されます。

 信玄が彼の父祖同様、民衆に苛烈な重税を課していたことは有名です。公正な政治を行ったともいわれますが、賞罰には身分差による不公平さがありました。こうした事情から民衆が不満を持っても当然なのに、しかし彼の治世時には目立った農民反乱などは起きていません。信玄の後を継いだ勝頼は、信玄時代の税制のまま、父同様に防御拠点の城を築き、神社を大規模改修したにもかかわらず、一気に民心が離れてしまったので、信玄というカリスマがいたからこそ、当時の甲斐国は身分を超えて結束できていたということでしょう。

 信玄は、農民たちにも独自の軍事訓練を課して、個性的かつ、強力な部隊に鍛え上げました。農民たちで結成された足軽部隊に投石の技術を習得させており、この「水股の者」と呼ばれた投石隊の攻撃は、家康軍を大いに苦しめました。

 投石といっても、ただ投げつけるだけでなく、投石機を使って巨人ゴリアテを倒した『旧約聖書』の英雄ダヴィデのように、武田の投石隊も特別な道具を使っていたのかもしれません。というのも、武田の投石隊が猛威を振るう様子は『松平記』、『当代記』、『三河物語』など江戸時代にまとめられた書物の多くに記されており、家康が信玄に惨敗する「三方ヶ原の戦い」では、合戦開始時の足軽の競り合いの段階で家康軍が早くも押されてしまっていたことがうかがえるからです。

 ドラマでは、人質の源三郎が、武田勝頼や武田家に仕える武士たちに混じって武田流の激しい鍛錬に付き合わされるという描写があり、帰還した源三郎が「彼らは化け物でございます……」と家康に伝えていましたが、実際に当時から「甲州人は強く、恐ろしい」とのイメージは出来上がっており、江戸時代においても、ただ甲州人というだけで女性や子どもまでもがそのイメージで見られていたほどです。

 織田信長は「兵農分離」……つまり、武士と農民を職業的に分離させる試みをスタートさせて成果をあげましたが、信玄がその真逆の路線で成功したことは明らかです。農民たちを味方に巻き込み、有事の際には、太鼓の音に合わせ、一斉に敵に攻めかかる兵士として徹底的に教育されていたようで、その成果の一つが先述の足軽による投石隊だといえます。

 兵農分離が進められたのは、農作業が本業の農民にとって軍事演習は負担であり、かつ農民に武装をさせない意味合いもあったわけですが、真逆をいく信玄のやり方はそのリスクがあるはずなのに、信玄時代には大きな農民一揆が起きた記録はありません。この手の軍事訓練が主君からの恩恵と考えられるよう、農民たちに徹底した思想教育がなされていたことがうかがえ、興味深い部分です。

 古くから武田信玄は「日本国に於て科学的に戦争を研究」し、「最も著しき(成果を上げた)一人」であると考えられてきました(明治時代の歴史家・山路愛山『徳川家康』)。兵農分離を断行した信長は、武士たちを農業から切り離して城下町に集め、総合的な軍事訓練を行っていましたが、一方で信玄の側はというと、武田家の築いた城の規模からそうした訓練までは行われていなかったと推測され、農作業をしながらでもこなせる訓練だけで、彼らを鍛え上げることに成功したと考えられます。武士が通常用いる弓矢、槍、刀といった武器を使いこなすには長期間の鍛錬が必要です。農民にはそういった武器を与えるより、投石技術を磨かせたほうが効率的だったのかもしれませんね。しかし、これらはあくまで筆者の推測です。どうやって農民を強力な足軽に鍛え上げることができたのかははっきりしておらず、それを指導した信玄がどのような軍学の教育を受け、鍛錬を積んだのかを伝える史料が残されていないのは残念です。あるいは信玄の傍には、本当に山本勘助のような伝説的な軍師の存在があったのかもしれませんね。

 信玄はその生涯において、他国への軍事侵攻をかなりの頻度で行っていますが、これは、他国よりもかなり高い年貢率を抑える狙いもあったでしょう。稲作ができる広い土地を多く獲得することで、国全体の年貢率が下げられるという目算です。ドラマ第16回の終盤でも、信玄が「この山々に囲まれた国になぜわしは生まれついたのか。よう恨んだ。もっと田畑があれば、海が、港があれば、もっと富があれば、わしは瞬く間に世を平らかにしたものを」と話していましたが、国が貧しかったからこそ、外に打って出る必要があったわけですね。「紀行」コーナーで紹介された、信玄による金山開発もそうした打開策の一つだったと思われますが、こうして得られた資金の大部分を富国強兵政策に用いていたのだと考えられます。(1/2 P2はこちら

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