『どうする家康』上洛戦へ――なぜ信長は足利義昭を将軍にしたのか
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朝廷とも一定の距離を取っていた信長
同年9月に「第二次上洛計画」が具体的に始動すると、第一次の計画が失敗してから約2年の間の周到な根回しもあって、かつての敵対勢力も信長の傘下に入る、もしくは信長に協力的になっており、織田軍と各大名による連合軍は、三好家など残る敵対勢力を破竹の勢いで打ち破っていきました。そして同年9月26日、信長と義昭はついに上洛に成功します。
まずは東寺に入った足利義昭ですが、仮の御所は本圀寺となりました(いわゆる六条御所)。当時、すでに義昭の従兄弟で、10代将軍・義稙の孫にあたる義栄(よしひで)が14代将軍として就任してはいましたが、彼は三好家勢力に担ぎ上げられただけの「お飾り」にすぎず、信長を味方につけた義昭は朝廷からの将軍宣下を受け、15代将軍となりました。
義昭は信長の強大な軍事力に支えられ、室町幕府の将軍として権威回復に成功した――世間の人々はそう考えました。京都の人々の目には、信長はいまだ新興勢力に過ぎず、官位が低くて(当時、従五位下)御所に昇殿しようにも不可能であったため、義昭の部下の一人にすぎないと認識されていたようです。
しかし信長は、官位の高低などさほど気にはしていなかったフシがあります。信長はこの時以降、天正10年(1582年)の「本能寺の変」で亡くなるまでの約14年間、京都を中心として活動を展開し、当時の日本最大の経済圏である、京都・大坂を中心とする「畿内」を手中に収めることに専心しています。足利義昭を奉じて上洛したのは、政治の中心地である京都において、体の良いステイタスを獲得するためだけだったようですね。
信長と義昭は互いに利用し合おうとした関係でしたが、その関係はすぐにこじれてしまいます。すると信長は将軍である彼を京都から追放し、その後は室町幕府も滅亡させてしまいますが、それに代わる政体の長となることを朝廷から打診されてもなお、明確な構想を打ち出すことはなく、そんな信長の姿から、「既存秩序の破壊者」という後世に流布するイメージが作られていったのでしょう。
とはいえ実際の信長は、形式的な地位よりも先に、経済基盤を盤石なものに整えることに大きな関心があったのかもしれません。伝統的な権威にまったく興味がなかったとはいえないものの、官位や地位の獲得には高額のお礼金が必要だったので、これを嫌った可能性はあります。
信長は朝廷とも一定の距離を取っていました。正親町天皇(おうぎまちてんのう)は、義昭の上洛計画が動き始めた永禄9年の段階で、信長の伸びしろ(そして経済力)を見抜いて、御所の修繕費用や、当時の皇太子・誠仁(さねひと)親王の元服儀式の経費300貫(≒現代の3000万円)の負担をしてほしいと「おねだり」を始めます。信長は「まずもって心得存じ候」――「 とりあえず考えておきます」と渋ったものの、一応これに応じました。しかし、誠仁親王のために信長が上納してきた300貫は兌換価値の低い“悪銭”で、額面の数分の一以下の価値しかなく、朝廷関係者を驚かせたのです。
また、永禄12年(1569年)には、信長を(義昭の)副将軍にしたいという正親町天皇の勅旨に対して無言を貫き、実質的にこれを無視しています。信長と正親町天皇の関係についても、お互いのさまざまな思惑が交錯しているわけですが、それはまた別の機会にお話ししましょう。
『どうする家康』ではだいぶ「怖い人」として描かれている信長は、次回予告映像で「この乱れた世を本来のありすがたに戻す」と宣言していましたが、義昭や正親町天皇との関係がドラマでどう描かれるのか、楽しみですね。
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