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日刊サイゾー トップ  > 北条時房の“コミュ力”と兄・義時との関係
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

北条時房は『鎌倉殿』同様に容姿端麗でコミュ力抜群? 兄・義時への対抗心も…

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

北条時房は『鎌倉殿』同様に容姿端麗でコミュ力抜群? 兄・義時への対抗心も…の画像1
北条時房(瀬戸康史)|ドラマ公式サイトより

 『鎌倉殿の13人』第45回「八幡宮の階段」では、源実朝(柿澤勇人さん)暗殺~公暁(寛一郎さん)誅殺までが丁寧に描かれました。実朝を殺したあとの公暁は、史実では実朝の生首を抱えて逃走したとされていますが(『吾妻鏡』)、『鎌倉殿』では、頼朝の時代から鎌倉殿に受け継がれたドクロを生首代わりに持ち去っており、ドラマならではの面白い演出だったと思います。

 しかし、気になるのが『鎌倉殿』の放送回数が、残りあと3回という点です。北条義時の死までが描かれるという事前情報はあった気がするのですが、そうなると「承久の乱」は「ナレ勝」……ナレーションで鎌倉方の勝利が伝えられる程度の描かれ方で終わるのかもしれません。

 クライマックスに向けて(いろいろな意味で)疾走を始めるであろう『鎌倉殿』の今後は固唾を呑んで見守るとして、今回は実朝亡き後の鎌倉幕府に少なからぬ影響を与えた北条時房と阿野時元という二人の人物についてお話します。

 まずは、『鎌倉殿』では「トキューサ」の愛称で人気の時房から。瀬戸康史さんが熱演中の北条時房は、義時から見て12歳年下の異母弟です。『鎌倉殿』では、義時(小栗旬さん)の手足となって働く所存だと力強く言い切り、義時がもっとも信頼する存在へとなりつつあります。第44回では、北条家の権力基盤を盤石のものとするために、武士にとって最大のタブーである「主殺し」――つまり実朝の暗殺も辞さない覚悟を決めたという義時から「鎌倉殿には愛想が尽きた」と本音を打ち明けられ、「五郎(時房)、ここからは修羅の道だ。つきあってくれるな?」と聞かれる一幕もありました。

 しかし、先週の第45回では、実朝の儀式開始直前に太刀持役を外されてしまった義時を見て「どうしてここに?」と素朴な疑問をそれぞれぶつけてきた三浦義村(山本耕史さん)や泰時(坂口健太郎さん)に対し、時房が「(理由は)聞かないであげてください」とかばう場面が繰り返されたり、次の鎌倉殿を親王にするのはやめようという義時に対し、「私は京まで行ったのですから」とややピントのズレた反論をする“ほっこり”キャラとしての側面が強く、あまりデキる人物としては描かれていませんでした。義時や、その嫡男・泰時の存在感に比べ、「トキューサ」にはドラマにおける和み要員として以外の印象があまりないという方も多いでしょう。

 史実の北条時房は容姿端麗でコミュニケーション能力が高く、ドラマの「トキューサ」と通ずるところがあります。何事にも器用な時房は、源頼家と実朝という鎌倉殿に連続して仕え、重宝がられたという記録もあります。時房は特に歌道と蹴鞠といった京都の王朝文化に秀でていたので、“上流志向”の強い頼家、実朝からは非常に喜ばれたそうです。

 時房には和を重んじる側面があり、それはドラマ第30回でも取り上げられた改名のエピソードからもうかがえます。時房が頼家の近習だった当時、彼は「時連(ときつら)」と名乗っていました。しかし、その名に使われている「連」の一文字が、銭の穴を貫いて束ねる「連」を連想させ、下卑ているから改名したほうが良いと(頼家の蹴鞠仲間の)平知康が指摘しました。

 公家や武士といった貴族層の“本名”である「諱(いみな)」は、その人の魂のような大事な存在で、それを侮辱するような物言いは非常に無礼なのですが、知康の指摘を真に受けた頼家が改名を要請すると、彼は躊躇も見せず、本当に「時連」から「時房」に改名してしまいました。このとき、知康が「時連」の名にケチを付けた瞬間を御簾の後ろから目撃した北条政子が本人に代わって(?)激怒し、「(平知康のような配慮の足りない人間は)頼家のそばに置かないで」と命じた記録が残されています(『吾妻鏡』)。史実の政子はこの手の命令を繰り返しすぎていたためか、この命令はあまり気に留められなかったようで、知康は結局その後も頼家の蹴鞠の会の常連でしたが……。

 時房が名を改めることにまったく抵抗がなかった可能性はないとは言い切れませんが、内心では政子のように気分を害していたものの、頼家の機嫌を損ねないよう素直に従った――そういうふうに受け取ることができるのではないでしょうか。

 また、実朝が暗殺された後、ドラマ同様に後鳥羽上皇は鎌倉に皇子を下向させることを渋りはじめました。史実の義時は、親王の関東下向計画をこれまで通り進めてほしいと要請するだけでなく、時房に千騎もの兵を率いて(京都に)上洛させ、武力を背景に脅迫するような姿勢まで見せました。しかし、当の時房はというと、脅すような姿勢は見せず、二カ月以上にわたって京都に滞在し、上皇の主催する蹴鞠の会に何度も参加して粘り強く交渉を続けたようです。

 こうした結果、初代鎌倉殿・源頼朝の血統を父方・母方ともに引く九条道家の三男である三寅(みとら、後の藤原頼経)を鎌倉に下向させることが決まりましたが、これもひとえに時房のコミュニケーション能力のたまものだったといえるでしょう。もっとも、このように上皇との絆が多少なりともあった時房ですが、「承久の乱」の際には義時の命を受け、泰時と共に京都方を攻撃する先鋒として活躍しています。これについてはドラマでも触れられるかもしれませんから、機会があれば、そのうちに……。

 一方、時房は、鎌倉殿の側近となってその本音を探るよう、北条時政が放ったスパイ的な存在だったという見方もあります。実際、頼家が暗殺された後も、時房は蹴鞠や歌道の才能でもって、実朝の側近の座に滑りこむことに成功しました。頼家の蹴鞠、そして実朝の歌道といえば、はた目からはやや異常なほどに耽溺した様子がうかがえる趣味活動ですが、これについても研究者の間では、北条家からの密命を受けた時房が、計画的に彼らが蹴鞠、歌道にのめり込むよう誘導した結果で、その目的は鎌倉殿に対する御家人たちの信頼度を落とすことにあったと考える人もいます。(1/2 P2はこちら

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