『鎌倉殿』の愛されキャラとは違う和田義盛 実朝とも親しい“やり手の政治家”ぶりが仇に?
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和田一族を滅亡させ、義盛から侍所別当の位をも奪いとった北条義時
建暦3年(1213年)2月、春の鎌倉に衝撃が走りました。清和源氏の血を引くと自称する泉親衡という人物が、実朝を鎌倉殿の座から引きずりおろし、故・頼家の息子で出家させられていた千寿を還俗させ、新しい鎌倉殿にするという謀反の計画を企てていたことが発覚したのです。
謀反は密告を受けた幕府の手で未然に防がれ、各地の武士130人とその従者200人が逮捕されるだけで済みましたが、問題となったのは、その逮捕者に和田義直、義重という二人の息子、さらに甥の胤長と、和田義盛の身内が3人も含まれていたことでした。
義盛と非常に仲がよかった実朝の厚意によって、そして義盛の「度重なる勲功に免じて」、彼の息子二人は、審議すらされぬまま即座に無罪放免となりました。しかし、甥の胤長だけは許されず、義盛が98名もの一族を率いて御所まで助命嘆願に訪れても、赦免を受けることは叶いませんでした。この時、和田一族を前に対応したのは実朝ではなく、義時であり、赦免できない理由について「胤長が今回の首謀者だったので鎌倉殿(実朝)はお許しにならない」と一方的に伝えてきました。
義時による仕打ちはこれだけではありませんでした。この時、後ろ手を縛られた胤長が新しい収監先に連れて行かれるところをわざわざ義盛たちに見せつけるという“デモンストレーション”まで行ったのです。胤長の住んでいた屋敷の所有をめぐっても一悶着がありました。当時のルールでは、このような場合、一族の誰かに所有権が移るのが一般的で、義盛も実朝にそう取り計らってもらえるよう願い出て、希望は叶えられたかのように見えました。しかし、実朝は一転して「胤長の旧宅の所有者は義時にする」という異例の再決定を(おそらく義時の意向で)行い、義盛は恥をかかされることになったのです。
当然ながらこうした行為は、義盛と和田一族を激しく侮辱するものでした。内乱の勃発を恐れる実朝に対し、義盛は「実朝さまではなく、義時が憎い」と公言し(『吾妻鏡』)、戦は避けられぬ空気となります。義盛はすぐさま北条家打倒の計画に取り掛かり、従兄弟でもある三浦義村に協力を要請しました。義村には、神仏に「私はあなた(=義盛)を裏切らない」と誓う起請文を書かせたのですが、しかし北条時政の追放時もそうだったように、今回も義村は義盛を早々に裏切り、義時に和田一族による襲撃計画を伝えてしまいました。
それでも義盛率いる和田一族の蜂起は、北条家に反感をもつ他の武士たちをも巻き込んで総勢150名と膨れ上がり、当初の勢いは凄まじいものとなりました。建暦3年(1213年)5月2日、申の刻(午後4時頃)のことです。義盛は兵を3手に分け、義時の命を奪うことを第一目的として猛攻撃を仕掛けます。
このとき、義時自身は直接応戦せず、戦闘は息子の泰時に任せ、自分は実朝の傍に控えました。実朝から和田義盛を謀反人として追討せよという命令を得るためです。しかし義時の説得にもかかわらず、実朝はなかなか首を縦に振らず、結局、追討令を得られたのは翌日でした。
ひとたび追討令が出されると北条軍が“官軍”となりますので、義時に対する不平不満はいったん脇に置き、多くの武士たちが北条側に駆けつけはじめ、和田勢は次第に劣勢となり、最終的に全滅してしまったのでした。こうして和田一族を滅亡させ、和田義盛から侍所別当の位をも奪いとった北条義時は、名実ともに幕府の最高権力者・執権として歩み始めるのです。
余談になりますが、和田軍を一晩中迎え撃っていた泰時はこのとき、万全の体調とはほど遠かったようです。ドラマ第39回でも、泰時が机の下に隠した酒をこっそりとあおるというシーンがありましたが、史実でも彼はかなりの酒好きだったようです。和田軍からの総攻撃を受けた時も、鎧をまとうのに手間取るほど深酒していました。
実は泰時だけでなく、ドラマでは謹厳実直なキャラに描かれている大江広元も、「和田合戦」勃発当日の昼から酒宴を自宅で開催しており、だいぶ酔いが回った頃に、和田義盛の屋敷に人が集結していると報告され、御所に馳せ参じたという経緯があります。「明るい頃からもう酒宴?」と思うでしょうが、平安時代半ばごろから、「寅刻(3:00-5:00)に内裏を退出して、未刻(13:00-15:00)まで仮眠」(細井浩志氏の論文『平安貴族の遅刻について一摂関期を中心に一』)する超夜型生活の藤原行成という貴族の記録がある京都とは事情が異なり、鎌倉では古代日本の朝廷のように日の出から仕事が始まり、特に何もなければ昼過ぎには業務終了というスケジュールだったのかもしれません。
いずれにせよ和田義盛は、泰時や広元などの幕府幹部の飲酒習慣を熟知しており、彼らが酔っているタイミングを見計らって攻撃を仕掛けてきていた可能性もあるでしょう。それでも和田一族の攻撃を防ぎ、実朝の御所への侵入は許さなかった泰時は立派といえますが、さすがにこのときばかりは懲りたようで、「これからは断酒する」という誓いを思わず立ててしまったほどでした。しかし、彼の断酒の誓いは、酒のせいで喉が乾いたので水を所望したところ、与えられた竹筒に入っていたのが酒だったのですぐさま破られてしまったそうです。
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