『鎌倉殿』でも“稀代の悪役”を見せ始めた北条義時…死の直後は神聖視されていた?
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日本神話の忠臣の生まれ変わりとまで持ち上げられた義時
晩年の義時には、日本神話の忠臣・武内宿禰(たけのうちのすくね)の生まれ変わりであるというウワサが流れ始めていたらしく、義時の死の約30年後、京都で成立したとされる『古今著聞集』にもその説は出てきます。同書にいわく、ある人が八幡神社に参詣した夜、彼の夢の中に神社の御殿の開いた扉の前に佇む、白いヒゲの老人が現れ、御殿の中から「武内、世の中が乱れるからしばらく北条時政の子となって、世の中を治めなさい」という声が聞こえたのだそうです。目覚めた後、その人は「義時公は武内宿禰の生まれ変わりなのだ」と悟ったのだとか。
武内宿禰と義時の共通点は、多少はあります。武内宿禰は五代と多くの天皇に仕え、義時は源頼朝、頼家、実朝の三代の鎌倉殿に仕えました。また、武内宿禰は神功皇后を、そして義時は姉の政子をサポートしたとされます(以上、細川重男『執権 北条氏と鎌倉幕府』講談社学術文庫)。
しかし、義時=武内宿禰とは高評価すぎる気もします。そもそも京都の人々にとって、義時は後鳥羽上皇を滅ぼした逆賊だったのではないか?とも思ってしまいますが、きわめて優秀であるがゆえに傲慢で、扱いづらいところもあった後鳥羽上皇を義時が敗北させ、上皇の鼻っ柱を折ったことが、京都でも実は密かに喜ばれていたようなのですね。生涯のある時期からは、生き残るために悪行を重ねざるを得なかった義時ですが、その人生の終わりで「承久の乱」に勝利できたことは、彼にとっては“逆転ホームラン”であり、極悪人の評価から一転、神にも等しい存在として崇め奉られるようになっていくわけです。ドラマの義時も、これまで散々その手を血に染めた末にせよ、最後は「承久の乱」の勝利者となったことを日本中から評価され、(ダーク)ヒーローとしてフィナーレを迎えられるような気もしますね……。
頼家に待ち受けるむごい最期
さて、予想はこれくらいにして、次回・第33回「修善寺」のメインの内容になるであろう頼家暗殺についてお話しておきましょう。武内宿禰が神功皇后をサポートしたように、義時が政子を手助けできていたかには疑問が残る部分も多いです。頼家の伊豆・修善寺への幽閉、そして暗殺については、さすがに政子は母親として大いに心を痛めた形跡があり、それはすなわち主犯である弟・義時への怒りにもつながって当然でしょうから……。
建仁3年(1203年)9月29日、頼家は伊豆の修善寺に幽閉されることになりました。従者や侍女は少数いたものの、すべてが監視役を兼ねています。ドラマでは政子が「修善寺ならたまに会いに行くこともできますね」と不安を押し隠すように、明るい表情を作って言っていましたが、史実の政子と頼家は、おそらく二度とは生きて会えない運命であることを悟っていたでしょうね。
頼朝が弟・源範頼に謀反の罪を負わせ、幽閉した後に殺害した場所だと考えられる信功院(現在は石碑があるだけ)と、頼家が追いやられた修善寺は目と鼻の先の距離です。そして修善寺は義時の領地である江間と、北条氏の伊豆での本領からも10キロ程度の距離でした。この修善寺という因縁の地で、頼家は死までの約1年を過ごしました。
『吾妻鏡』では頼家の滞在の記録はおろか、彼の死因すら記載されていないのが不気味この上ありませんが、ドラマにも第32回から登場している慈円(山寺宏一さん)の手による書物だと考えられる『愚管抄』によると、「さて次の年は元久元年(=1204年)7月18日に、修善寺にて又(北条家は)頼家入道をば殺してけり。とみにえ取りつめざりければ、顎に緒を付け、ふぐりを取(とり)などして殺してけりと聞(きく)べき」(※原文をひらがな表記にして、読みやすく改めたもの)という記述が出てきます。
おそらく入浴中だった頼家は殺されまいと必死に抵抗したのでしょうね。「緒」というのは縄と解釈してよいと思います。縄を投げ、彼の首に絡めて締め上げ、頼家が倒れたところを刀で刺そうとした時に、しつこく暴れられたので、誤って彼の男性器の一部を切り落としてしまい……というあまりに凄惨な場面が想像される文章です。それだけではすぐに出血死はしませんから、その後も血まみれの抵抗が続いたはずで、『鎌倉殿』がいくらダークな歴史ドラマとはいえ、映像化は不可能と思われます。ドラマの頼家は「北条憎し」の態度を隠そうともしていないですし、予告映像では「北条の者どもの首をはねる!」と怒る頼家の姿もあったので、反乱を企て、その後、粛清されてしまうという流れによる「戦死」として頼家の最期は描かれるかもしれませんね。
修善寺に伝わる伝承では、頼家は修善寺のある山を下り、近所の子供たちと一緒に遊んだり、狩野川のほとりにある月見ヶ丘に歩いてのぼり、そこで月を眺めていたという話があります。この時、頼家はまだ22~23歳くらいの若者です。そんな頼家が未来を奪われ、死を覚悟しながら、ただ生きているしかない状態に追い込まれたというのは、考えるだけでもやるせない気分になってしまうものです。かつてはその月見ヶ丘の中腹にあったとされる「愛童将軍地蔵」は、頼家のむごい死を知った地元の人々の寄付によって作られ、その慰霊を目的としたものといいますね。
なお、修善寺には頼家の持ち物であったと考えられる舞楽の面も伝わっています。岡本綺堂が脚本を書いた新歌舞伎の『修禅寺物語』にも小道具として登場する面ですが、実物は「何だか頼家の暗い運命が其の面に刻み込まれて居る様に思われる」という岡本の感想通りの、笑うドクロをかたどったような不気味で荒削りな代物で、これをなぜ頼家が……という疑問が消えません。ひょっとしたら幽閉中の頼家が恨みを込めて自作したのではないか?などと考えてしまう筆者でした。次回の予告映像にもこのお面が出ていたので、三谷さんがどのように使うのかも楽しみですね。
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