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『鎌倉殿』とは大違い、史実では「悪禅師」だった全成がたどる非業の死

全成にかけられた“謀反”疑惑は謀略?

『鎌倉殿』とは大違い、史実では「悪禅師」だった全成がたどる非業の死の画像2
阿野全成(新納慎也)とドラマにおける妻・実衣(宮澤エマ)|ドラマ公式サイトより

 全成が出家したのは、父・源義朝が平家に敗れた後の平治元年(1159年)、7歳の時のことでした。醍醐寺で出家し、隆超(もしくは隆起)と名乗った後に全成に改名しています。

 しばらくは僧として勤行に励む日々だったようですが、治承4年(1180年)、平家に対する以仁王の蜂起を知ると、密かに醍醐寺を脱出、修行僧の扮装で東国に旅立つという行動力を見せています(『吾妻鏡』治承4年10月1日条)。

 数いる弟たちのうち、兄・頼朝のもとに一番早くたどり着いたのは全成です。この時、頼朝は「石橋山の戦い」で惨敗した直後でしたが、それでも全成が来てくれたことに感涙し、喜んだといいます。全成は、武蔵野長尾寺(現在の川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ、また頼朝の義実家にあたる北条家の女性・阿波局(ドラマでは実衣)と結婚しますが、その後は頼朝が亡くなるまで『吾妻鏡』にはほとんど登場すらしない日々が続きました。

 ドラマでは北条ファミリーの一員として描かれていましたが、史実の全成は出家した僧の姿のままで、駿河国阿野荘を領地にもつ御家人として頼朝に仕えていたとされています。妻である阿波局と常に一緒に過ごしていたというわけではなかったようですね。

 全成は、義経と同じく常盤御前を母に持つ人物ですが、義経と頼朝の関係が悪化し、義経が討たれるという時にも弟を救おうと具体的な行動を起こしたりはしていません。つまり、若き日は「悪禅師」として知られたものの、頼朝と合流した後の全成は、牙を抜かれたかのようにおとなしくなってしまっていたのです。

 頼朝に反抗せず、北条家にもおとなしく従う限り、それなりに有利な立場で生き残れるはずだというのが全成の“生存戦略”だったのでしょう。頼朝が亡くなると、全成と北条家(特に時政・義時)の関係は一気に深まり、比企家や頼家の一派と明確に対立するようになりますが、これは全成の思惑というより、一人でも味方を増やしたい北条家の意向に従っただけのことだったのかもしれません。

 頼家が突然、全成を排除しようと動き出したのは建仁3年(1203年)5月19日、子の刻(深夜0時ごろ)のことでした。全成は謀叛人として捕縛、監禁されてしまいます。同月25日には常陸国に流罪とされ、6月23日には頼家の命を受けた八田知家の手で殺害されたのでした。享年51歳。

 7月には、全成の子供のうち、ドラマに名前だけ出てきた頼全ら二人が殺害されましたが、本当に全成が謀叛人だったかについては強い疑いが残ります。阿波局との間に生まれた息子・時元は生き残り、御家人としての阿野家を継いでいるのですね。また、全成の娘は、都の公家・藤原公佐と結婚しており、その子孫は謀反人として非業の死を遂げた阿野全成の家名を引き継ぎ、阿野家を名乗りました。ちなみにその血統からは後醍醐天皇の寵愛を受けた阿野廉子、幕末に倒幕運動を繰り広げた玉松操も輩出されていますが、“武家政権にとって手痛い反抗勢力が時々出てくる家”といったイメージでしょうか。

全成の死、頼家の急病と北条家の暗躍

 興味深いのは、全成の死の前後、本当に頼家が病で危篤になっていると『吾妻鏡』に記されていることです。それこそ、ドラマの頼家のセリフのように神仏など恐れないという態度を彼が取っていたからだ……と『吾妻鏡』は語っています。

 建仁3年(1203年)6月、頼家は自ら主催した富士野の巻狩の際、何を考えたのか、人ならざるものが住んでいるという伝説のある「人穴(ひとあな)」と呼ばれる洞穴の探検命令を出しています。この時にメンバーとして選ばれたのは、かつて頼朝が富士野で巻狩を行った際、荒れ狂うイノシシに飛び乗って仕留めたという勇猛果敢な逸話で知られる仁田忠常とその従者たちでした。

 人穴の内部はコウモリが飛び交う“地獄”だったといいます。大きな河が流れており、そこで発光する人外(=人ならざるもの)の姿を見た瞬間、仁田の従者四名が即死してしまったそうです。恐れおののいた仁田は、頼家から拝領した太刀を河に投げ入れました。「この刀を捧げるので、命だけは救ってほしい」ということでしょう。毒蛇の姿をした権現様(=富士信仰の神)との「この洞穴の中の“地獄”について、人に話してはならない」という約束を破って仁田が頼家に伝えたことが原因となり、頼家は急病に倒れ、仁田も後年、非業の死を遂げた……という恐ろしい話もあります。

 これまでも『吾妻鏡』は、頼家のことを蹴鞠狂いの女好きとして描いてきたわけですが、この逸話からは、その上でさらに彼のことを「神をも恐れぬ大悪人」として描こうとする意図も感じられる気がします。

 頼家が悪く描かれるということは、つまり北条家の“悪行”を正当化する目的があったともいえるでしょう。頼家が病で意識を失って寝込んでいる間には、北条時政・義時父子が不穏な動きを見せています。

 時政は、「頼家はもう助からない」ということを前提に、「東国の統治権は一幡(=母は頼家の妾で比企能員の娘・若狭局、ドラマでは「せつ」)に、西国の統治権は千幡(=北条政子と源頼朝の間に生まれた男子で、乳母が政子の妹・阿波局。後の源実朝)に譲れ」と主張しました。これに比企能員は強い反対姿勢を示し、怒りの収まらぬ能員は、千幡と北条家を討ち取ろうと御家人たちに声をかけるのですが、これは北条家の罠に彼がはまってしまったことを意味しました。建仁3年9月初頭、比企一族は北条家の手で一気に滅ぼされ、頼家の子・一幡も殺害されてしまう大事件となります(「比企能員の変」)。

 意識を取り戻した時、頼家はどれほど驚愕したことでしょう。跡継ぎとして考えていた一幡と彼の権力を支えてくれた比企一族が、北条の手ですでに消されていることを知ったのですから……。このあたりの血で血を洗う陰惨な粛清劇はドラマでも詳しく描かれるでしょうから、その時、またお話することにしましょう。

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堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/02/21 12:30
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