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日刊サイゾー トップ > エンタメ  > “爆笑太田”と“問題田中”、光代という三角形

爆笑問題はコンビでありトリオ。暗黒期を脱した太田の決意と光代の戦略と、田中の自己肯定感

爆笑問題に独立を持ちかけたマネージャーとは?

 1990年、爆笑問題は太田プロを独立。太田プロに所属してたった2年後の出来事だ。独立の経緯について、『アンタウォッチマン』は「当時のマネージャーが『一緒に独立しよう』と話を持ちかけたのがきっかけ」だと説明した。

 振り返ると、当時は若手芸人を中心とした小さなお笑いブーム(ボキャブラブームより前)の真っ只中。だから、爆笑問題の独立はちょっとしたニュースだった。

 あらゆる人が言及している。具体的な記述は避けるが、例えば浅草キッドは書籍『お笑い男の星座』(文藝春秋)で「爆笑問題は当時の担当マネージャーの霊感の導くままに連れられ太田プロを独立」と解説。また、漫画家・演芸評論家の高信太郎は自著で件のマネージャーについて、「(そのマネージャーは)自分の担当の芸人が売れると、それは芸人の力ではなく自分の信仰のせいと考える人でしたから、芸人とのもめ事が絶えないわけです」と綴っている。ビートたけしでさえ、『北野ファンクラブ』(フジテレビ系)で「●●(マネージャーの実名)が爆笑問題を持って逃げて、逃げっぱなしになった」とギャグにしていたほどだ。

 約20年前、芸人志望だった筆者の友人は某大手事務所の養成所に通っていたが、件のマネージャーはそこで講師を務めていたらしい。授業では爆笑問題のネタを紙に文字起こしし、生徒に配って漫才を説いていたという話も聞いている。

 なんにせよ、爆笑問題に相当な可能性を感じていたのだろう。2年で独立という忙しなさだ。今の芸人と比べると、独立も結婚もかなり早い。どちらも、20代での出来事だ。

暗黒時代が楽しくて仕方なかった田中

 フリーになった爆笑問題は、見事に仕事が激減した。

「勝手に事務所を辞めちゃった人は、『嫌だ』って勝手に番組を辞めちゃうかもしれないじゃないですか。それは、やっぱり信用できないですよね。そういう人は(番組で)使えないし。だから太田プロを辞めて3年くらい、活動はほぼないです」(光代)

 マイルドに表現しているが、率直に言うと爆笑問題に圧力が掛かったのだ。当時の芸能界の暗黙の掟を破ったのだから、それは当然の流れ。生活するために田中はコンビニでアルバイトを、まだ太田プロのタレントだった光代も家計を支えるためコンビニでアルバイトを始めた……というのが番組の説明だった。

 定説は異なる。パチンコの稼ぎで光代が太田を養っていたのは有名な話だ。太田は働かず、家でゲーム三昧の日々だった。「働け!」「ヒモじゃないか!」という指摘があるかもしれないが、芸人の成功を目指す3人が全員コンビニで働いていたら、それはそれでマズイ。せめて、太田1人くらいは娑婆の水に浸からせたくない。そんな考えだったのかもしれない。

 そして、93年になると同期のホンジャマカ、後輩のバカルディ(現・さまぁ~ず)によるバラエティ番組『大石恵三』(フジテレビ系)がスタート。太田の焦りはより一層加速した。片や、田中はコンビニオーナーから店長就任を打診されていたらしい。

「本人は結構やる気だったの。これ、一番マズイと思った瞬間! 田中には『あんた、(店長を)やるの? 爆笑問題どうするの?』って言ったんだけど、『でも、もう無理じゃん』って。あの人は自分の置かれる環境の中で最大限楽しむ人なんです。だから、コンビニも全然楽しくやってたし、店長とか任されたらすごい喜んじゃうタイプ」(光代)

 この見解を、田中も否定しなかった。

「本当、そのときは楽しかったんですよ。当時の生活っていうのは、草野球で週に3~4試合やって、ダブルヘッダーやったり、バイト終わったらカラオケ行ったり」(田中)

 ダンディ坂野がマクドナルドの店長を務めていたのは有名な話だが、田中もその流れに乗りかけていたのだ。あと、田中の家族は兄がコムデギャルソンのデザイナーで、姉はピンクハウスのデザイナーである。成功した兄姉を見ているから自己肯定力が育まれ、不安を感じていなかったのかもしれない。

 当時、草野球で田中と顔を合わせることのあった伊集院光は「干されるって大変なんですか?」と、恐る恐る田中に質問。しかし、グローブをパンパン叩きながら田中は、「太田はそう思っているかもしれないけど、俺は毎日草野球ができて楽しくて仕方ないんだよ」と答えたそうだ。まさに、“爆笑問題の本当にヤバい方”田中裕二の面目躍如である。

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